【短編小説】白紙を埋めるように歩く

※フィクションです



俺は俺のことで手一杯だから、俺のことを語ることにする。

俺が十二歳の時、両親の離婚をきっかけに産まれてからずっと暮らしていた家を離れた。俺は二個上の兄貴と母と暮らすことになった。若い母に手を取られ夕日の下を歩いたのを覚えている。眩しくて母の顔は見えなかったが、多分泣いていた。その涙の理由が今までの生活から解放された喜びなのか、今後を憂いてなのかは知らない。遠く離れた新しい我が家は年季の入った平屋だった。キッチンやトイレ、風呂場などはリフォームされていたが、それ以外はかなり古びていた。新旧入り混じった歪な家だった。初めて与えられた自室は念願叶って手に入れた宝物のように思えた。四畳半の部屋はベッドと本棚を並べるとすぐ窮屈になった。ベッドがあるのにわざわざ床で寝た夜もある。でも一度だけだ。

兄とは仲が悪かった。些細なことで喧嘩をした。殴り合いの喧嘩だってした。兄はだらしない人だったが絵だけは上手かった。だけど、同級生との揉め事で相手を怪我させて以来描かなくなった。描けばいいのに本人は頑なに筆を取らなかった。しかし鬱憤が溜まるようで俺にあたるようになった。迷惑だ。残念なことに世の中には弟をサンドバッグと勘違いしている兄がいる。
はっきり言って、兄は弱い人間だった。俺はそんな兄を心の底から嫌ってはいない。彼が描いた絵を見れば誰だって理解してくれるはずだ。特に家族の絵。あれは素晴らしい。幸せそうに笑う両親。肩を組み合う兄弟。足元には立派な大型犬。兄は全て想像で描いた。兄が抱く家族像を父と母はどう思ったのだろう。

新しい生活にも馴染み、俺はその街に溶け込んだ。昔からの友人と勘違いしそうな連中と毎日のように遊んだ。放課後は冒険に明け暮れた。俺にとっては何もかもが新鮮だった。新大陸を発見した気分だった。スーパーの近くにあるカードショップの色褪せたポスター。市民プールの錆びついた微妙に可愛くないマスコットキャラクターの像。長い坂道を自転車で駆け下りる恐ろしいレース。日曜日に開催されるフリーマーケットで売られていたおもちゃの宝石。ボウリング場の廃墟に出没する謎の怪物の噂。懐かしくなってきた。退屈という言葉と最も縁遠い日々を過ごしていた。慌ただしい毎日が愛おしかった。どれだけ富を得ようとあの日々を送ることは叶わない。叶わないからこそ価値のある時間だと思えるのだ。ありがたいことに俺の人生は楽しいことが日々更新されていった。こうして過去を懐かしむことはあれど、戻りたいと願うことはない。

高校を卒業し、俺は第一志望の大学に進学した。自転車で通える私立大学だ。漠然と大学に通いたいと思っていた。モラトリアムの延長が目的だった。まだ遊んでいたかった。学生生活の中で就きたい職種を考えればいいやと軽く考えていた。浅はかな考えで後に後悔することになる。大学生になった俺は浮かれていた。アルバイトも始め金を稼げるようになって遊びに夢中になった。当時付き合っていた彼女がバンドに熱中していたのもあり、ギターを始めた。その時奮発して買ったエレキギターは押し入れの中で埃をかぶっている。よく言えば好奇心旺盛、悪く言えば無計画。酒と煙草と麻雀を覚えた。スロットやパチンコにはハマらなかった。競馬は派手に負けて以来馬券を買わなくなった。気まぐれに書いた短編小説を教授に褒められて以来、誰に読ませるわけでもないが小説を書くようになった。兄は絵を、俺は小説を。二人とも創作するという共通点があった。ようやくそこで俺たちは兄弟なのだなと思えた。兄は部屋にこもるようになった。扉越しに会話をすることはあったが姿を見ることはほとんどなかった。トイレから出てきた兄とばったり顔を合わせた時、彼は今まで見たことのない恥ずかしそうな表情を見せた。調子が狂った。あの日、麻雀で勝てなかったのは兄のせいだ。


兄が死んだ時、俺は泣かなかった。多分、予想していた展開だったから。兄は本当に絵を描くことが唯一の人間だった。絵描きの夢を諦め、工場で働いたり、スーパーの店員になる兄を想像することは俺もできなかった。どうにか絵に関わる仕事さえできれば、とも思うがどうしようもない。 葬式には父の姿もあった。久し振りに見た父は年齢よりも老けて見えた。白髪染めもしていないし、シャツもヨレヨレだった。父は母さんに「大丈夫か」と声をかけていたが母は何も答えなかった。かつて兄が描いた絵のような幸せな家族はどこにも存在しなかった。 救いのない現実に俺は悲しくなったが、この悲しみも一過性のものと理解していた。無性に煙草が吸いたくなったので喫煙所に向かった。


兄が死んでからというもの、よくないことが続いた。あれだけ好きあっていた彼女には振られるし、アルバイト先に来た迷惑な客を殴ってクビにされた。単位もいくつか落とした。幸いなことに卒業はできそうだった。ただ、その後の予定が白紙のままだった。俺は就職活動というものを全く行っていなかった。何度か合同説明会には参加した。話を聞くのは大変面白かった。しかし、自分の企業の一員として労働するのは想像できなかった。馬鹿にしているわけではない。自分が自分としてではなく、企業の一部として扱われる現実に違和感があった。要するに、プライドが許せなかった。俺を俺として扱ってほしい。その時、眠り切っていた脳味噌に電流が走った。小説家になりたい、と。短編小説が書けたのだ、長編小説だって書けるはずだ。時間はあるのだから。本当はない方がいい時間なのだが。最低賃金でもいいから一時間働けば金になる。しかし、小説は完成させて商品として販売しないといけない。すぐには完成しない。根気のいる作業だ。でも、挑戦しない理由はなかった。俺は華々しい道を行く友人たちを見送った。こうして俺の創作生活が始まった。

アルバイトを探した。いくつか目星をつけ、履歴書を書き上げ面接へ。最初に受けたレンタルビデオ店で運良く採用してもらえた。よく利用していた店舗なので制服に袖を通した時は不思議な気分だった。以前は居酒屋でのバイトでレジはあまり担当していなかったので最初は戸惑ったがマニュアル通りにこなせばなんのことはない。接客中に起こり得ることは大抵マニュアルに書かれている。素晴らしいことだ。なんなら、誰かに制服を着せマニュアルを持たせればすぐにレジを任せられるだろう。容易に代替が効くのだ。給料は夜になれば高くなる。深夜のシフトになるべく入るようにした。簡単に昼夜逆転生活に突入した。これが苦痛だった。目を覚ますと夕方で、しばらくしてバイト。世間一般の人々とズレた時間で活動しているようで違和感が凄まじかった。だが、そうなってから執筆が捗るようになった。以前褒められた短編小説を元に書いている。いくらでも膨らませられる気がした。フリーターとなって3ヶ月目、初めての長編小説が完成した。


「面白くない」
中学の時から付き合いのある親友の大村はコーヒーを飲み干してそう言った。彼は読書が趣味の文学青年で、俺と好みが似ていた。お互いに小説を勧めあったりする仲だ。それだけに彼の一言は衝撃だった。俺はどんな顔をしていたのだろう。
「頑張って書いたのは伝わるよ。尊敬する。でも前の短編を無理やり文章をだらだら続けさせて長編しただけって感じがする。風景描写も少し不親切な感じがする。あと、なんか似たような表現が多い。全体的に動きが少ない。退屈」
退屈。
一番聞きたくなかった言葉だった。
大村に悪意はない。彼は本当に俺を尊敬してしているようだった。小説を書くって意気込んで本当に書くやつはそういない。彼もそうだったらしい。長い付き合いだと思うが作家志望だったなんて知らなかった。彼は食品メーカーの営業職として社会に踏み出した。俺はただ駄文を綴るフリーターだった。カフェの料金は大村がサラッと支払ってくれた。俺は煙草を吸いたかったが、最後の一本はさっき吸ってしまった。


バイト先でしょうもないミスをしてしまった。素直に謝罪すれば良かったがうまく言葉が出なかった。今日はもう帰っていいと言われ、大人しく従うことにした。原付に跨って走り出す。赤信号で止まる。雨が降ってきた。雨は徐々に勢いを増していく。雨宿りをしようと近くのコンビニに避難した。ホットコーヒーと菓子パン、煙草を買って外のベンチに座った。清掃された後の吸い殻受けを汚すのは気が引けたが煙草を吸いたい欲求には勝てなかった。吸い終わると同時に腹が立ってきた。頭がぼーっとして、壁を殴りたくなるが痛そうだからやめた。雨は止みそうにない。大人しく濡れて帰るしかなかった。

俺よりかはマシな日々を生きていたであろう大村が仕事を辞めた。想像と違っていた、というよりは本当にやりたいことを見つけたらしい。彼はラーメン屋を開店すると言った。呆気に取られた。あのまま会社勤めしていた方が良かったのでは、なんて一瞬でも思ってしまった自分の頬を叩いた。大村は俺に力を貸してほしいと手を差し出した。迷うことはなかった。しかし、まともに飯を作ったこともない、なんならご飯の炊き方すら知らない俺にできることはあるのだろうか。レンタルビデオ店のアルバイトをしつつ、ラーメンについて勉強し始めた。勉強と称して大村とラーメン屋巡りをした。人の金で食べるラーメンで俺は順調に太った。お気に入りの柄シャツが着れなくなり、焦った。早朝ランニングを始めたがすぐにやめた。ボクシングをしている友人、永瀬に助言を求めた。
「ラーメン食べるの控えたら?」
間違いなかった。
食べるばかりではなく、実際に作った方がいい。俺はネットで得た知識を元に近くのスーパーで材料をまとめた。エコバッグに詰め、大村に電話した。電話に出た彼はどこか気まずそうな感じだった。何かあったのか、と尋ねると、「いやぁ、やっぱり働くことにした」なんて言いやがった。ふざけるな、と電話口で怒鳴りそうになったが押さえ込んだ。どうやら、前の職場から戻ってこないかと説得されたらしい。大村は「ごめんな」と言った。
後に彼は職場結婚し、マイホームも買って、新たな家族を築くことになる。正しい選択肢を彼は進んだ。少なくとも、誰も間違いと指をさすことはないだろう。

深夜、腹が減り冷蔵庫の中を確認した後、俺はコンビニを目指した。十二月の風は冷たい。大学生の時から愛用しているモッズコートを着て歩いた。スニーカーはボロボロでそろそろ買い替えたかった。
コンビニの店員はやる気のない大学生で、堂々とスマホを触りながらレジに立っていた。俺は雑誌コーナーで漫画雑誌を何冊か立ち読みし、ホットのレモンティーとウインナーが挟んであるパンを買った。
来た道を帰る途中、煙草を買うのを忘れたことに気付いた。だが、また戻るのも面倒だなと諦めた。それから俺は煙草をやめた。無ければないでなんとかなるものだった。絶対に吸わないと意識しているわけではない。吸いたくなったら吸うだろう。そんな機会があるか分からないが。玄関を開け、自室に戻り、そのままの格好でベッドに飛び込んだ。
小説のアイデアが出てこない。いくら絞り出そうとしても自信を持って面白いと思えない。どうにか書き上げても納得できないでいた。駄作を印刷してくれたコピー機も三日前に故障した。もう書くな、と告げているようだった。

気がつくと二十三歳になっていた。大学を卒業して一年が経過した。俺はフリーターだった。みんなは部下ができてさらに責任ある立場になった頃だろう。正直羨ましい。もう小説家になることは諦め、就職活動をしよう。今ならまだ既卒として扱ってもらえる。新卒の時よりかは選択の幅は減っているだろうが、このままフリーターを続けていくべきではないだろう。
頭では理解していたが、俺は机に向かっていた。キーボードを叩き、物語を紡いでいた。この瞬間にも頭の中で架空の世界で繰り広げられている人間ドラマを鮮明に描写するべく神経を尖らせる。
ようやく、中編小説を書き上げた。一日立って最初から読み返してみても面白いと思えた。一週間立って読み返しても面白いと思えた。自信作と胸を張って言えるものが書けた。嬉しくてその場で跳ねた。応募しよう、と拳を握り締めた。

締め切りが近い文学賞に応募した。あらすじもスラスラと書けたので内容もまとまっているのだなと思えた。
結果は当分でない。となると、次回作に着手しておきたい。気分転換にもなるだろう。こう、応募したものはもう自分の手を離れた感覚になる。愛着がなくなっていないが、固執するのもよくない。兎にも角にも次回作だ。全く違うものを書きたい。ファンタジーだ。俺は早速図書館に行った。図書館でファンタジー作品の創作に役立ちそうな書籍を何冊か見繕い、あと読みたかった小説も借りた。全部読めるのかは自信がなかった。


父親に食事を誘われた。幼い頃、よく通っていたファミリーレストラン。昼時を過ぎているので客はまばらだった。あまり腹は減っていないが、タダ飯は基本的に断らない。損した気分になるからだ。
店員に案内された席に着いた。テーブルに灰皿は置かれていた。俺はもう降りたからいい。俺は父に吸わないの、と尋ねると首を横に振った。
「やめたんだ」
意外だった。かつて父は常に煙草を吸っていた。そうなんだ、としか言えなかった。この時すでに病に冒されていたと後に知る。父は俺の近況ばかり聞いてきて、自分のことは大して語らなかった。昔からそうだった。
「まだフリーターなのか?」
こくりと頷いた。
「やりたい事は順調か?」
こくりと頷いた。
「じゃあ、大丈夫だな」
父はブラックコーヒーを飲み「コーヒー飲むと煙草吸いたくなるな」と笑った。俺も笑った。
日替わりの定食を食べ、別れた。父はもう少し俺と話したかったようだが、その時の俺は小説を描きたくてうずうずしていた。父と久し振りに会話したのが刺激になったのだろうか。


兄の部屋は時間が止まっている。彼が死んで以来、あの部屋に出入りしているのは母だけだった。その日、俺は兄の部屋に入った。物が多い部屋だった。ベッドは乱れたままで、カーテンは閉ざされていた。イーゼルには恐らく、書きかけの絵が置いてあった。モデルがいるのかは定かではないが、女性の横顔が描かれていた。裏返してみてもタイトルは書いていない。兄に彼女がいたとか聞いた事はない。俺の知らない人だった。どうして完成させなかったのだろう。敢えて描き上げなかったのだろうか。兄ならそうするかもしれない。彼は自分が理想とするものを描く。家族にしてもそうだ。この絵は兄が想像する理想の彼女……なんて考えるのは品がないと思いやめた。部屋を出た。


仲良しだった友人が通勤途中の事故で亡くなった。葬式には見知った顔が集い、みんなで彼を見送った。酒を飲み、悲しみを誤魔化した。どうも、死の気配みたいなものは慣れない。慣れたくないだけかもしれない。彼が死んだという現実は俺にとっては嘘みたいだ。外の喫煙所にでも行けば彼がいるような気がした。若過ぎるだろ、と誰かが泣き叫び、つられて何人かが泣いた。俺は飲むペースを落とし、下を向いた。すぐにでもこの場を離れたかった。俺はどんな顔していればいいのだろうか。できるだけ誰の邪魔にならないようにトイレに向かった。さっきまで腹の中にあったものを便器にぶちまけた。だが、一向に気分は良くならない。口を濯ぎ、ハンカチで口を拭った。通路の窓から喫煙所が見えた。煙草を吸っている女性が見えた。元カノだった。共通の友人だから居ても不思議ではないか。随分と変わっていて気が付かなかった。声をかけようかと考えあぐねいていると向こうが手を振ってきた。覚悟し近付いた。彼女は以前よりも美しくなっていた。簡単に近況を話し合い「うまくいかないね、お互い」と笑った。乾いた笑いだった。煙草を揉み消し、彼女は「帰るわ」と去った。俺もそうしようと荷物を取りに戻り、何人かに呼び止められたが帰った。ここにいてはいけない。俺は前に進まなくてはいけない。みんなより遅れているのだから。変な焦燥感があった。劣等感はなかった。

寝れない日が続いた。目を覚ます夜が増えた。寒い部屋なのに汗をかいた。

原付に跨ってどこまで行けるだろうと国道をひたすら走っていたが途中で飽きた。飽きたがすぐに家に帰るのは疲れる距離だったのでオシャレな外観のカフェに入った。コーヒーとサンドイッチを注文し、つまみながらスマホで小説を書いた。どこにいても何をしていても小説のことを考えている。朝から晩までずっとだ。今のところ、俺は楽しんで書けている。どっかで嫌になる可能性だってあるがその時はまた夢中になれるものを探そう。多分、人生は思った以上に長いし、簡単に終わるのだ。コーヒーを飲み干し、会計を済ませた。外に出てストレッチをした。ここから長い道のりだ。日が沈む前には帰りたかった。
特に何か大きな出来事があったわけではないがこの日のことはやけに鮮明に覚えている。

応募した小説は一次選考で落選した。かなりショックだった。スーパーで買ったウイスキーをガブガブ飲んだ。奮発して買った肉を焼いては食べ、焼いては食べた。母が仕事から帰ってきたので一緒に食べた。風呂に入らずその日は寝た。頭の中では新たな物語が動き出している。形がある程度整っていけば後はそれを文章にして書くのみ。頭に直接ケーブルを繋げてイメージをいい感じに文章化する発明はまだ出ないのだろうか。誰もが気軽に創作を楽しめる時代……悪くない。面白い話を書くやつがモテるようになるのだろうか。俺は前だけ向くことにした。後ろを見ると後悔しそうだ。涙腺を緩めないようにキツく絞った。大丈夫、まだやれる。そう信じた。

今日の海は来るものを拒むように荒々しかった。近くの自動販売機で買ったホットコーヒーで温もりを感じながらベンチに座って眺めていた。流石に泳いでいる人はいなかったが、砂浜を歩いているカップルがいた。どうか末永く幸せであってほしい。他人の幸福を願えるくらい、今の俺には余裕があった。誰かの足跡をなぞるように歩くと足が海水に浸った。
限界だった。騙し騙し続けているが俺にはこれ以上誤魔化すことはできなかった。

母の元を離れ、一人暮らしを開始した。一人暮らし、といっても完全に自立した生活ではない。母には頭が上がらない。かつて通っていた大学近くのアパートだ。近所を散歩していると、まるで学生時代の日々をなぞっているようで笑いそうになる。よく通ったゲームセンターは潰れていた。利用する人口が減っているのか、家庭用ゲームをする人が増えているのか、どうなのだろう。俺はそんな心配よりも今後について考えるべきだ。
夜になり、原付に乗ってコンビニに向かった。
そして、煙草を買った。
ライターは一生で使い切れるのかどうかってくらいある。喫煙者は知らぬ間にライターが増えるものではないだろうか。
家に帰り、換気扇の下に立ち、一服。脳が揺れたような錯覚。鼻を突き抜けるこの感じ。少しくらっとした。

 にしても喫煙者ってのは口に煙草を咥えていないと落ち着かないよね。俺もそうだけど。ことあるごとに煙草を吸いたがるじゃない? 食事の後とかさ。カラオケで歌いながら吸うやつもいるでしょう? 歌うのか吸うのかどっちかにしろってんだ、と周りには思われてんのかな。でもさ、煙草っていいよな。俺さ、喫煙者になる前は待ち時間に本を読んでたんだ。スマホとかはあんま触んないの。理由はそっちの方がかっこいいかなぁってだけ。でもさ、煙草吸い出したらそりゃ吸うよね。ばかすか吸う。コンビニの店員に顔覚えられてんの。入店した途端ササっと用意してくれたりさ。ありがたいよね。店員の前に立って番号を探すの、ちょっと苦手なんだ。
どうにも思考がまとまらない。何を喋りたいのか分からなくなる。俺は俺のことだけを語る。俺の物語を語れるのは俺しかいない。俺は有名人でもなければ何かを成し遂げた偉人でもない。後世に語り継ぐことなんて一切ない。自分で言ってて寂しくなる。嘘、ならない。だって、そういうものじゃない? 成功者にはなれないさ。だったら、好き勝手に語るしかない。
この間、商店街で昔の友人とすれ違ったよ。幸せそうな、兄貴が望んでいたような家族だった。犬はいなかったけど。なんかさ、どこにでもある風景なんだけど、どこまでも嘘くさく見えた。
どっかで間違えたんだ。そう思いたい。選択しなかった方では俺は幸せなんだ。これが俺にとって唯一のルートでないことを祈る。
誰に祈る?
どこまで他人に依存しているのか。他力本願だ。自分で努力することを最初から放棄している。後になって悪口を言う。そんな自分を理解しているのに変わらない。
脳が痺れる。揺れている感覚。
目がチカチカする、って表現伝わるかな。こう、目を指で押さえた後みたいな。あれに近いかな。疲れが溜まっているのだろう。
兄貴の未完成の絵を思い出した。
彼は何を描こうとしたのだろうか。聞いても教えてくれないだろうな。別に期待していないし、もう期待することはできない。
脳が痺れる。
本当に痺れているのか? 大袈裟なんじゃないか。取り敢えず、そう表現しておけば無難だと思っていないか? 頭の中で俺が囁く。
酒が飲みたい。ウイスキーがいいな。後で買い物に行こう。明日でいいか。今日は疲れた。こんなにも無気力な状態なのだ、家で休もう。
視界に白いもやもやが見えた。煙草の煙ではない。もやもやは徐々に人のようなシルエットに姿を変えていく。夢でも見ているのか。でも、これはやっぱり現実で、俺は安心した。
やがて完全に人の形になった。肩辺りの長さの髪。前髪は眉毛より少し上で整えられている。ぱぱっちりした目。色を塗る前のフィギュアみたいだった。その状態でも美しいことが分かる。動くと耳が見えた。サラサラした髪質で羨ましい。
唇が動いた。
しかし、言葉は聞き取れない。そもそも音を発していないのだろうか。滑らかに動いていた。これはなんだ。違和感があった。
俺は知っているんじゃないか。兄貴の絵に似ているんだ。未完成だからこうなっているのだろうか。つまり、これは俺が作り出した幻想か。横顔しか描かれていなかったのに、こいつは俺が今まで出会ってきた様々な人の要素で形成されていれのか。ありえない。どうしてそんな出鱈目なものがこうも綺麗なのか。
彼女は何かを伝えようとしている。でも、分からない。分かりたい。俺が作ったものなら、俺が話すようなことを言うだろう。なら、俺の言葉と言っても過言ではない。俺は無視されるのが大嫌いなんだ。俺は人の話を聞く。その人が俺に対して話しかけているのなら尚更だ。
「あ」
ようやく、彼女の声が聞こえた。低い声だった。何かを訴えかけるように彼女は手を差し伸べる。取っていいのだろうか。どうして俺はすぐに手を伸ばせないのか?
煙草の火を消し、吸い殻を三角コーナーのビニール袋に捨てる。卵の殻に当たった。黒い液体が白い殻を汚した。
換気扇の音がうるさい。耳を塞ぎたくなる。もしかして彼女の声が聞き辛いのはこれのせいでは? 換気扇を消した。
彼女は先ほどと変わらないまま手を差し伸べている。
体が動かない。脳の命令を拒否している。
どうして?
「あ」
彼女はまたそれだけ言う。
「あ」
俺は手を取った。血の通っていないその手は冷たかった。手と手が同化していく。振り払おうとするもその範囲はどんどん広がっていく。やがて、彼女は満足そうに笑った。
気色悪いくらい可愛かった。

「ひかりをさがして」

はっきりと、声が聞こえた。

目を開けると、カーテンの隙間から光が差していた。思わず、目を逸らしてしまう。テーブルの上に置いてあるデジタル時計を見て驚いた。日付が変わっている。朝になっていた。どれだけの時間こうして立っていたのだろうか。
未完成の絵。俺が作り出した幻想。同化。
なんだったんだ、あれは。夢ではないだろう。そう信じたい。確かにあった出来事だ。
チャイムが鳴った。こんな時間に来訪者とは珍しい。待たせてはいけない。すぐに向かった。
ドアを開けると母が立っていた。
「あら、早起きね」
これ、と母はパンが詰まった袋を渡してきた。
「食べるでしょ?」
渡すとすぐに帰って行った。自由な人だなぁと思った。パンの香ばしい匂いを嗅ぐと、腹がぐぅと鳴った。
大丈夫。
俺はまだ生きている。

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