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(短編小説) 手


 村崎哲司は熱心に手を合わせていた。お堂内には彼と同じような姿勢で頭を垂れてぶつぶつ念仏を唱える老若男女がひしめいている。まるで蜂の羽音のように低く唸る僧侶たちの読経の声。護摩焚きの赤い炎が高く揺らめき、木の割れる音が時折小気味よく響いた。
 どうか二度と盗みをしませんように。
 村崎は祈った。これまで六度も捕まっている。しかし実際に重ねた罪はその十倍。払える金はあるのについポケットや鞄に棚の商品を入れている。
 食品、文房具、キッチン用品、電池、店先のキーホルダー…。どうしても必要なわけではないのに、目にすると欲しくなる。正確に言えば盗りたくなるのだ。悪いことと知っていて、捕まったらどうしようとビクビクしながらも止められない。防犯カメラの位置を確かめ、周りを軽く見回し、ついと手を伸ばしてポケットに忍ばせる。早足だと怪しまれるので、まだ物色してる振りをしながら店をでてゆく。早鳴る鼓動に押されるように急ぐ。背後から声を掛けられやしないかと冷や汗をかきながら。
 成功する時もあればGメンに呼び止められる時もあり、常習犯として逮捕された後、クレプトマニアと診断され、更正施設に二年間入所したが、退所したその日に立ち寄ったスーパーでパンとヨーグルトをこっそり持ち帰っている始末。無意識に刻まれた生来の悪癖であった。
 初めて捕まったのは十七歳。制服のポケットにCDを隠して店を出た直後に肩を叩かれた。両親にこっぴどく叱られ、兄には蹴飛ばされ、学校でも居場所を失った。二度とやるまい。決意したにも関わらず、それから五度も逮捕されてる大馬鹿者。
 現在四十一歳。とうとう家族にも見放され、定職にも就けない。専門家でも治せない悪癖を断ちきれるのは、もはや神仏しかないと、この寺に駆け込み、毎週祈祷を受けていた。
 村崎がこの寺を選んだのには理由がある。阿修羅像がいるからだ。少年のりりしさを残しながらも、物憂げな面差しで静かに合掌している三面六臂の阿修羅像はこの寺の名物。彼に会うためにはるばる訪れる参拝客は後を絶たず、村崎も心を奪われているひとりだった。
 阿修羅は元は鬼。戦いの悪鬼だったが、釈迦の説法によって改心し、神となった。村崎はそんな彼に自分を重ねていた。
 おれも身の内に巣食う悪を浄化したい。鬼を追い出し、正しく生きる。伏せたまなざしの阿修羅像に誓いを立てた夜、自宅の布団の中で突然ある思いが膨れ上がった。 
 猛烈にあの阿修羅像が欲しくて欲しくてたまらなくなった。彼を側に置いておきたい。阿修羅像が見張っていれば二度と馬鹿な真似はしなくなるはず。身勝手な妄想に過ぎないが、村崎は自分を律するための使命だと信じきった。
 一度火が着けば手に入れるまで収まらない。連日寺に通い、境内をくまなく下見し、僧侶の日課を把握するために宿坊体験にも参加した。
 決行は雨の日を選んだ。阿修羅像を台座から切り離す作業を雨音で消すためだ。その日はまるで村崎の決意を押すが如く雷も鳴り響く夜で、僧侶たちも見回りを早めに終えていた。ナタを手に茂みに隠れていた村崎が機を見計らっていた次の瞬間、近くに落雷が直撃し、辺りが真っ暗になった。
 今だ!懐中電灯の明かりを頼りに祈祷所へとダッシュし、ドアをナタで打ち破って阿修羅像へと突進し、祭壇をよじ登った。後方の柱に括り付けられていた台座を力任せに切り落とすと、像がぐらりと自由になった。村崎はその身をしかと抱き留めた。一メートル二十センチほどの背丈。千年の流転を過ごした木像は乾いて軽かった。
 持参したナイロンの布に阿修羅像を包んだ。心なしか見つめられている気がした。興奮と焦り。しかも細い腕が四方に出ているからうまく包めない。このままでいいやと、半分身を晒した状態で抱き抱えて外に出た。
 依然激しい雷雨。靴音と荒くなる呼吸を掻き消す大太鼓。復旧しない停電の暗がりに乗じてとにかく走った。バシャバシャと跳ね上がる飛沫でズボンの裾が重い。車までもう少し。もう少しだ。しかし道が暗いせいか、なかなか辿り着かなかった。
 その時、何かにつまずいた。前のめりに転んだ直後、ポキリと音がし、見ると阿修羅像の手が一本折れていた。
 ああっ、なんてことだ!
 狼狽した村崎はへたり込んだ。すると、暗闇から迫る、ぼうっとした明かりと共に、降りしきる雨を裂いて人影が現れた。紺の作務衣姿の若い僧侶だった。村崎はすぐに土下座をした。
「ああ、お坊さま、私はなんと罪深いことを…。本当に、本当に、申し訳ございません」
 背中を刺す雨の矢が正気に戻し、無常を乞うた。村崎はすぐさまあぐらをかいて座り、右腕を真横に伸ばした。
「お坊さま、どうか私の邪悪なこの腕をそのナタで切り落として下さい。私は盗みが止められない。こうでもしなければ己を制御できません」
 村崎の頬は雨と涙でびしょ濡れになっていた。うう…と声を漏らし、右腕の拳を握った。
「分かりました。それであなたが救われるのならば、私めがその役目を引き受けましょう」
 僧侶は自らの裾を破って村崎の腕にきつく巻き付けると、傍らにあるナタを手に持ち、念仏を唱えた。
「あなたにご加護があらんことを」
 振り下ろした刃は村崎の体から右腕を離した。
「ああ…ありがとうございます。これで私は、罪を重ねなくていい。これでようやく…」
 村崎は天を仰ぎ、僧侶に何度も礼を述べ、よろよろと豪雨の闇に消えていった。
 翌朝、祈祷所の掃除に訪れた僧侶らは一同に驚愕の声を上げた。台座から外れ掛かった阿修羅像が人間の右腕を高く掲げていたからだ。畳の上には血の付いたナタが転がっていた。何があったのか困惑する中、大師はナタを拾い、厳めしい顔をして像を見上げた。
「阿修羅め。悟りを開いても人をかどわかす鬼の悪癖は抜けぬのだな。いたずら心は改心せぬようだ。その手が意味するものは、罰か?救いか?」
 合掌する切れ長の瞼の端。かすかな笑みが見てとれた。


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