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壮絶な誕生から入院

皆さん、こんばんはかすみんです。
タイトルを見て驚かれた方も多いかなと思いますが、今回は私の幼少期のお話をしようかなと思います。

出生時から4歳頃まで書いていこうと思うので、長丁場になりますがお付き合いくださいm(_ _)m

思いもよらない出産

 私は北海道の田舎町、酪農が盛んな町で生まれました。かくいう私も酪農一家の末子です。
父と母、兄が2人の5人家族。家の敷地内にもう1件家があり、父方の祖父母と曾祖母が住んでいました。
 私を出産した時の話をよく家族から聞かされました。
「あんなに早く生まれるなんて思ってもみなかった、お前も母さんも死にかけたんだよ」と。

私は、2ヶ月の早産で、母は胎盤剝離を起こしていました。出血が酷くビニール袋を履いた状態で車に乗って病院に行ったそうです。
病院に着くなり早々に帝王切開されたそうですが、母の麻酔が効くまで待つ猶予はなかったと言います。私の命はまさに一分一秒を争うようでした。
父方の祖父は、遠方に住む母方の祖母に電話で状況を伝え続けていたと言います。
そうして生まれた私は1510gとかなりの未熟児。
私は出生後2ヶ月の間大きな病院に入院していました。
ただ、私の障害がこの時点でわかっていたわけではなかったようでした。
これ以上のことは私には伝えられていないのですが
障害者手帳の交付まで約3年かかっていることを考えると障害がわかるまでに相当な時間がかかったことは想像できます。

親元を離れて初めての入院

私の中の記憶としてはっきり残っているのは4歳頃から。
私はその頃から地元から遠く離れた子供専門病院で1人で入院するようになりました。
それまでは何度か母親と母子入院をした記憶はありましたが、1人での入院は初めてのことでした。入院した病院自体が子供専門病院で、地元から車で6時間ほどかかるほどの距離があったことが関係してのことだった気がします。
1度置いていかれたら毎週末母が会いに来てくれるという訳にもいかなかったので、母が来ないことを認識する度大泣きしていた気がします。
ただ、そんな中でも救いだったのが同じような境遇の子が少なからずいたことでしょうか。

唯一無二の共感者

彼の話を始めるとこの幼少期からはかなり越えてしまうのですが、綴っていきます。
私より2つ年上の男の子。私が泣く度、泣き止むまで隣にいてくれました。彼は私よりも家族の面会が極端に少ない子だったので、比較的近郊に住む私の祖母が面会に来る時彼を見かねて面会室に誘い、一緒に過ごしたことも多かったです。

そんな風に多くの時間を彼と過ごしていたものだから、いつしか隣にいることが当たり前になって執着にも似た初恋をしていたように思います。
そこから彼と会わなかった期間を抜いて約6年。私が中学1年の時までお互いに恋人だと思っていました。普通の恋人たちが伝えるような「付き合って」というような言葉はなくお互いがいるなら一緒にいるのが当たり前だろうと当然のように一緒にいて、周りの大人たちも若干呆れていたのか成長した私たちが一緒にいることも止めることがありませんでした。

お互いに似た過去があり、家族よりも家族らしくお互いの気持ちが分かる唯一無二の共感者でした。

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