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宗教や信仰についての雑記 #215

◯使用②

家電製品などの物品を買うと、多くの場合取扱説明書が付いています。それを全部読むのは面倒なので、読まずに使い始めてしまうのですが、そうすると時々、この場合はどうしたらいいのかと戸惑ったり、使い方を間違えたりしてしまうときがあります。

何か道具が使われるとき、無論それを使う者が主体なのですが、その一方、道具にはそれぞれ使用方法というルールがあり、使用者はそのルールに従わなければ道具を使用できません。
そのルールに従うことにより使用者は道具の使用に習熟し、やがて道具は使用者の「延長された自己」となります。
それは道具の使用により使用者が変容したということでもあります。

人はときに己の存在意義を問います。その問いを求めて超越者の前に己を差し出す者もいます。
己の存在意義を問うということは、己自身を道具的に観ていることでもあります。そして己を超越者の前に差し出すということは、自ら道具となって、超越者の「延長された自己」となることを目指していることのようでもあります。

道具の使用により使用者が変容するように、個人が信仰により超越者の「延長された自己」となることは、それにより超越者に変容をもたらすことでもあります。
ただその「変容」とは、目に見えぬ超越者そのものが変わるのではなく、人間が捉える面とか、我々への現れ方とかいったものが変わるということなのだと思います。
その変容が、先日の投稿(#213)で書きましたように、閉じられた円環となるか、それとも開かれた螺旋のようになるかは我々の姿勢次第なのでしょう。
我々が信仰を持つということには、そのような責任が伴うのだと思います。

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