見出し画像

猿島と三浦半島との関わり

前置き

皆さんは猿島を知っているだろうか?
これを読んでいる方のほとんどは知っていて読んでくれているかとは思っている。
でも簡単にどういった島なのかを最初に紹介したい。

猿島は神奈川県横須賀市に存在する無人島で、東京湾唯一の自然島、つまり人工的に作られた土地ではなく元から存在した島だ。
今ではBBQやさまざまなイベントを行う会場、そして江戸や明治、大正昭和と戦争が終わるまでは要塞としてまさしく東京湾の要として使われた。

でも私はそれ以前はどうだったのかという疑問が生まれてきた。
猿島でよく取り上げられる話は要塞としての役割ばかり、それか縄文などにこれまたレジャー目的として訪れられていたという形跡があるのみであまりその後の話は聞かれない、
私はその空白の期間においての猿島について調べることにした。

猿島何の島?

まず、私はその空白の期間において「三浦半島」の持ち主の移り変わりを見た上で考えた。
朝廷、三浦氏、北条氏etc…三浦半島の持ち主というのは変化している。
でも朝廷時代はまだしもやはり江戸になるまでの利用方法は見つからず政治的な利用をされていたのは本当に軍が利用するようになってからでその他の形跡は見つからなかった。
それは横須賀で作った横須賀に関する本からも分かる。
でも当然かとは思った、朝廷は距離が離れ過ぎているし、武士の時代もわざわざ猿島を使う程の価値はなかったと思う。
それに、人が住むには飲み水を確保できないなど多くの課題が残ってしまう…そう考えると猿島に住むメリットも無い、
だとしたらそもそも猿島を政治的に使う必要がないのだから資料にも残す必要がないのだと考えた。

だったら、猿島という島の当時の利用方法はどうだったのか。
もちろん現在のようにレンガを積む要塞があったわけではない、だとしたら普通の木々が生い茂る自然に溢れた島だったと言える、
結論から言おう、神の島としての役割をしていたのだ。

狛猿

猿島の神様

その昔、日本人は植物や島には神がつくという考え、多数の神がいる八百万の神という考え方をしていた。
そして猿島は自然にあふれた島だった、昔の人にとってそこは神がいて当然の土地だった。
そしてそんな場所には神社ができる。

平安時代頃になり、そこは島全体が一つの神社のものとなった。
その神社の名前は春日神社、現在は横須賀、三春町にある神社だ。
そもそも春日といったらほとんどの人は奈良にある春日大社を思いつくだろう。
それもそのはず春日神社は春日大社から分霊勧請(離れた土地で同じ神様を社殿で祀る)をした神社だと伝えられているのだ。(所在地が元々藤原氏の荘園だったことから由来されている。)
また、猿島+小島9個で十嶋大明神とも呼ばれていたそうだ…こう聞くと猿島の当時の猿島がかなり神聖視されていたことが分かる。
そう、この島は辺境のこの地においてこの地に遠くの神様を祀らせる重要な土地だったのだ。

実際に現在三春町にある神社を訪れてみると猿島に本来あったとされる狛猿も見ることができる。
でも実際どのようにお参りしていたのか、実際に神社の人から話を聞いたところによると歩いて渡れたこともあったそうだ。
陸と島とが小島によって繋がっていた時はそういったことをしていたらしい。

しかし繋がっていない時はどうしていたか、それは年1のお祭りでやっていたそうだ。
つながっていなかった江戸時代ごろは年1度程複数の漁船で調理した食材をのせ、田戸囃子(既に廃れてしまったらしい)をかけながら船で渡っていたようだ。
そして猿島でまさしくお祭り騒ぎをしていたそうだ。
そして祭り以外の時は現在の春日神社のある辺りから猿島に向けてお参りしていたそうだ。
現在は埋立の影響で島が直接見えなくなってしまったがその当時は見ることができたらしい。
そして明治に陸軍に引き渡されるまでの間そこには神社があったそうだ。
猿島という島は地元の人たちにも多く根付いていた神社だったと言えるだろう。

今回は猿島が三浦半島の人たちに大きく信仰される、そういう神社だったことを知ることができた。
今の猿島では神社だった頃の形跡を土砂崩れなどの事情によって見ることができない。
さらにもう一つの信仰の象徴である日蓮洞窟も…

最後に

現在の猿島は老朽化がひどくいつ歴史的遺産が潰れてもおかしくない状況だ。
だったら多くの人に猿島の歴史を知ってもらって残す方法を模索する必要もある。
自然と歴史、相対するものであるがそれは猿島では同じくらい大切なものだ。
最後に皆さんにそういうことを考えて猿島を見てもらいたいと伝えて今回の話は終わりにしよう、皆さんも皆さんなりの猿島の魅力を探して欲しい。


弾薬庫

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?