投票率、食料自給率、外国軍基地、原発、教育

主権国家の、主権という言葉の意味の正確な定義は知らないけれど、常識的に考えて、異常に低い食料自給率と選挙での投票率、首都東京をはじめ各地に存在する外国軍駐留基地、廃棄不能の原発、教育という名の洗脳訓練、この現実は国家主権の意味を考えさせられる。

停滞の30年の意味は、日本という国を器で例えるなら、その器の容量ギリギリまで中身を満たし、余った分を無駄に垂れ流している状態なのだろう。
器そのものの容量や形態を変えるべき時期に、ただそのまま放置し続け、無駄に垂れ流し浪費し続けることを嘆いても何も解決されない。

自動車製造業が日本の工業生産能力の最後の砦だという現実は、非常に深刻だろう。
その非合理性は簡単で明白だ。
自動車のように大きく重い資源多消費の商品を、資源小国の日本が加工貿易の形式で生産販売し続けることの非合理性。
そもそも日本のように面積が狭小で地形が複雑な国土で、モータリゼーションを推進することの非合理性。
一つの非合理を強行すれば、さらに次のより大きな非合理を生み、やがて非合理にがんじがらめにされ、矛盾崩壊する。
環境破壊と貴重な人的資源の浪費消耗、その幻想性・虚構性・非合理性に気付くべきだろう。
自動車は移動のための道具でしかない、人間の生活の中で、生涯の人生の中で、一つの場所から他の場所へ移動することの重要性はそう大きなものではない、ただの移動のための道具の一種類でしかない。

たぶん、自動車に固執する源流は、軍事・軍隊にあるのだろう。
兵器兵員の移動には自動車が最適であると思う、軍事の機動性を担保する移動手段は自動車しかない。
明治以後の軍国主義は自動車産業を育成する必要があった。
国内はともかく国外、広い大陸での戦争遂行には、自動車は不可欠であり、国産製造の必要があった。

第二次大戦後、夥しいアメリカ文明の流入の中で、モータリゼーションも入って来た。
現実の劣悪な生活環境、劣等感と憧憬、西欧文明に対する信仰、ジープとトラックとアメ車、戦後を生きて来た自分には痛いほど解る。
六甲山のドライブウェイを走り回ったり、名神高速道路をぶっ飛ばしたり、青春の1ページでもあった。
自動車価値観という一種の信仰に近い生活スタイルは、マッチ箱のような家屋の前に、無機質なガレージを設け、ピカピカの新車を置くというステータスを生み出した。

自動車産業を維持するために、日本人は、日本社会は大きな犠牲を払っている。
自動車産業の非合理性を埋めているのは、日本人社会の非合理性であり、日本人の生活の非合理性だ。
時給1000円の非正規パート勤労者に、自動車購入は不可能だろう。
都市へ流入する過密人口は、モータリゼーションそのものを成立させなくする。
京都は幹線道路から外れると道が狭い、その狭い道を自動車を走らせる、運転技術の高度さと道路情報の精密さには感嘆するしかないが、歩行者は時には避け時には立ち止まり、自動車に道を譲らねばならない。
しかし、最近は皮肉なことに、道路でいきいきと遊ぶ子供も増えて来た。
消費税からの輸出品還付金、慢性的な性能検査不正、産業構造内部からの崩壊現象も始まっている。

かって日本の電気器具製造産業は隆盛を誇った、しかし、現状はどうなっているのか?
電気器具の需要は無くなってしまったのだろうか?
電気器具は国民生活の必需品となり、種類も多様化し、機能も向上充実した、しかし、電気器具製造産業は衰退し、製造企業は没落した。
製造供給の面でも、需要消費の面でも、日本にとって、電気器具製造は自動車製造より有利であったはずなのに、あっけなく淘汰されてしまった。
効率よく利益を求める資本主義の論理では、当然の結幕なのかもしれないが、切実壮絶な現実だ。
必需品が製造できなくなり、雇用が消失し、生活が崩壊する。
自動車製造産業の未来も決して明るくない、おそらく凋落が始まればその速度は電気器具製造産業の比ではないだろう。

企業の論理・資本主義の論理に服従する限り、国民生活は翻弄されつつ、食い潰されて行く。
どこで歯止めを掛け、国民生活を守るか。


民主主義政治システムは、資本主義社会を擁護し維持するためのものなのかもしれない。
しかし、資本主義を制御する方法は民主主義政治システムしかない。
現在の段階では、資本主義そのものを変換させる方法はない。
将来はマザーコンピュータによる全人類の統御に向かうのかもしれないが、それは人間そのものの変質を意味すると思う。
民主主義政治システムでどうやって資本主義を制御するか?
民意を政治に反映させるには、政治システムの根底である選挙において、投票率を引き上げつつ有権者の資質見識を向上させるしかない。
有権者の政治参加なくして、民主主義は成り立たない、有権者の資質見識のレベルアップなくして、政治のレベルアップもあり得ない。
先ず、何とかして投票率を引き上げ、高投票率を維持しながら、自分自身が投票した選挙結果から学習して、資質見識を高めて行く、迂遠のようだがこれが民主主義の王道だ。
民主主義政治は自己責任システムだ、個々の有権者が自分自身で政治責任を負うしかない。
投票率が引き上げられなければ、それは、民主主義政治システムそのものの欠陥が露わになったということになる、絵に描いた餅だったということだ。
国民有権者は稼ぎの半分近くを税金として国家に徴収されている。
その税金の使い道を決める政治に参加することを忌避すれば、その結果は自分自身に降りかかって来る。
自分が払った税金が他人の利益のためだけに使われ、酷ければ、自分を従属迫害させるために使われる。
生物としてあり得ない愚行だが、生存システムが複雑化すれば、それについて行けない可能性も生まれる。
しかし、いまだこの社会は本気に選挙での投票率を引き上げようと努力したことはない。
候補者や選挙管理者が自分たちの都合のために投票を呼びかけることはあっても、有権者自身が有権者全体の利益のために本気で投票率を引き上げようとしたことはほとんどなかった。


空気と水と食糧、生物は生物としての宿命から逃れられない。
この閉鎖空間である日本の国土での、原発による空気と水の核汚染と食糧自給率の極端な低水準は、生物として根源的に深刻な事態だろう。
危険を感知できなくなった生物は滅亡するしかない、それは自然淘汰の新陳代謝の一環なのかもしれない。
核汚染の危険さは、放射線は人間の五感では感知できず、発症の顕在化までに時間がかかり、対症方法がなく、核反応が続く限り核汚染も続き、核反応は止められないというところにある。
たかだか蒸気タービン発電のために、未熟な原子力技術を投入するという荒唐無稽さは、人間の愚かな尊大さの証しだろう。
核兵器製造を前提にした原子力発電をなぜ日本に導入したのか?
事故原発の解体処理は現在の科学力では不可能であるし、使用済み核燃料の処理も、核汚染廃棄物の処理廃棄も、火山列島上の国土内では無理という他ない。
原発問題は、もはや経済問題ではなく、国土と国家の存続に係る根本課題になっている。
本気で国家の総力をかけて解決を図らねばならない課題だ。
空気と水の核汚染に加え、食糧自給率の異常な低さは、日本人自身がこの日本の国土での生存を放棄したかのように見える。
食糧生産の放棄は、国土の放棄となり、国土を荒廃させる。
なぜ日本はここまで自傷自損行為に走るのか?
日本はどうしたら食糧自給率を引き上げることができるのか?
食糧自給率100%を達成維持するためにはどうすべきなのか?
これが日本再建の根底となる。
日本国民全体がずっと食べていける食糧生産体制を構築することが、環境保全、防衛安保、経済繁栄の基礎となる。
国民の幸福感は食糧自給による安心感に在る。


教育、ここに日本の問題の根本原因があるような気がしてならない。
日本の教育が高度化されればされるほど、徹底化されればされるほど、日本人は弱体化して来ているように感じる。
テスト偏重と表面学力の偏重、教育のビジネス化は学力の数値化を求め、順位による能力の可視化を図る。
答えが完備した問題ばかりをやっていると、模範解答以外の回答を求められなくなるし、回答がない問題に回答できなくなる。
テスト万能化は、教育万能化と密接に結び付き、自分で自分のことを考えられなくなり、自己を放棄して権威に従属する。
日本人はただでさえ与らば大樹の陰と、大勢に順応しようとする傾向が強い、その上に更に、教育による価値観の画一化が加わると、偏狭排他の集団痴呆集団狂気の温床となる。

どうしたら、外国の駐留軍を国内から撤退させることができるのか?
首都をはじめ全国各地に外国の駐留軍基地が存在していて、主権国家と言えるのだろうか?
敗戦から80年、今なお軍事統制が続けられ、解消の兆しすらない。
外国軍駐留は、軍事的占領であり、独立した主権国家ではあり得ないことだ。
外国軍駐留の現実を無視したまま、自衛のための防衛軍事力を論議しても意味がない。
外国軍に駐留され、外国軍に防衛軍事力を統括され、外国の利益になるよう、国政をコントロールされている現実を認識しない限り、永遠に外国の支配から脱却できない。
傭兵と言うより、無料の使い捨ての傀儡兵として、日本人が徴兵投入される日も近い。

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