普遍的な枠組み

 朝活4日目。今年も12分の1が終わりました。
1月は行く 2月は逃げる 3月は去る ウッキー
これぐらいで子どもは笑ってくれます。

 いわゆる本質的、たぶん言い方はたくさんありますが、、にこだわっているとそのものの見方はどうなんだろうと思うことがあります。子どもにまつわる議論には普遍的な枠組みが欲しいと思う所以です。念押しですが、良い悪いの話ではないです。合ってる間違ってるでもない。対話が成り立たないから解決に向かえないというハナシです。邪魔しているのは文化や権力というワードでよく表されてきた目に見えないものだろうという仮説。しかし今流行りの見える化しても課題解決にはつながらない。そこには相手の解釈や忖度、文化や権力を乗り越えた高度に中立化した枠組みの中で対話する時間が仕事として必要なのだと考えているということです。

 ものの見方という点で、トピックになりうるのが学校にヒトが足りないという話です。もちろん私見ですので異論反論あっての対話です。私は学校には人が余っていると考えています。
 
 今私は学級担任ではないですが週に27時間授業しています。空きコマなし。休んだ担任がいた場合朝や給食、お帰りにもいくし、長めの休み時間にも子どもが話し相手になってもらいにやってたり、一緒に遊んだりもしています。一単元終わったら300枚以上丸つけをしますし、成績入力や分析もします。その他諸々。実は諸々の方が時間が多くかかります。
 いや、人足りてなくね。朝活してる場合じゃなくね。
 私は別にこれで楽しくやれてます。自分なりには質にも日々向上を目指しています。それでもヒトは余っていると私が言う理由は、、
 学校には1時間も授業してない人間がいます。しかも一人や二人でない。うちでは10人以上。もちろん管理職も入ります。藤原和博さんは教育委員会も含めて管理職の仕事を精選し、担任にまわせばヒトは足りるとどこかでおっしゃてました。でもその話題は広がりを持ちませんでした。教員の配置に関わる法律がそれを阻んでいるからだと思われます。
 話がそれました。今の公立学校は配置について平等性や経営の効率化を担保できる枠組みがあればそれなりに法律の壁を意識せずにマンパワーが充足している学校づくりができるはずだと私は考えます。というかウデのある教師がそれなりいる学校では実現できている。そんな学校が全国にはすでにいくつか存在します。公平性の観点から、それはそれで問題なのですが。
 
 ウデがある人間が揃えばこの枠組みが自然に出来上がるのではないか。ここが結論。別に仕事したくない人間、できない人間、やり方がわからない人間を攻撃したいわけではない。セクシー田中さん問題ではないけど付け加えておきます。

 この枠組みは制度や法律のみに依拠するものではないのでないか。となるとその正体は?公立学校教員が転職したり、起業したり、NPOや居場所をつくったり、私学に行ったり、大学教員をめざしたりしないで済む枠組みをつくってから退職しなきゃと思う今日この頃。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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