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食べ物へのコストと渇望

今日、家族に
「あなたは余ったものや、もらった分はいくらでも食べるよね」
と言われてしまいました。

そこから、食べることに対する姿勢ほど、人間の変化を如実に表すものはないと感じてしまいました。


あくまでちょっと前の話

私の周りには、子供に対して
「無駄飯食い」と言う人が、まだいました。

私は、親元から離れて暮らす小児の時期に言われたので、
まともに影響を受けました。

食べるのは悪。
食べた分だけ稼ぐのがルールなのに、
そうできない事が非常に申し訳ないから、食べるのは最低限で、と思っていました。

しかし、

昭和末期は食事が今よりよほど豊かな時期

でもありました。

農作も変化の時で、一級品以外の安い野菜が多く出回り、お裾分けも多く、

魚も安くて、小魚なんかは掬って量り売り、

メニューも新しいものがどんどん紹介され、腕の振るいどころがたくさんありました。

子供でも「余った材料使って好きに作ってみ」という機会がありました。


もちろん、料理をするという義務を女性が背負って、
何品ものおかずを作るのが良い事、という、透明なプレッシャーの存在は感じていました。

それでも、

生きるためだけ分のご飯を、申し訳なく食べる世界より、

楽しく豊かに見える食の世界は、
魅力的でした。



当然、「買ってほしい、作ってほしい」、というワガママは言えないので、

可能な限りの食料を、原材料から自分で作り出すことにのめり込みました。

元々、例えばお茶とか葉っぱ摘んでから作るのが普通、という感覚だったので、

疑問を持たず、西洋のあれこれも、
図書館で作り方を探し、
有る材料をアレンジして作ってました。

小麦粉も砂糖も卵も安く、小遣いを貯めれば買える時代でした。

安くたくさん作れることが、
食べ物にお金を使うことへの贖罪かと思え、
少し安心して食べられました。

割と上手にできていたと思う割に、
なにがおいしかった、という記憶はあまりに無いのですが、
その時の自分の熱心さはよく覚えています。

コストの時代

今でも、自分の食べる物にお金を使うのがとても苦手です。


ダイエットという言葉も食べなくていい理由だったけど、

しかし、最近風向きが健康志向に変わってきて、

困惑しつつも、
働き続ける為の効率を考えて、と食べています。

そうすると、
食べることに対しての、
心苦しい、恥ずかしい、なにが正解か分からない、

から
食べる事は生活のためのコスト
という切り替えに成功し、最近は随分気が楽です。

しかしその考え方だと今度は、
原材料もガス代も自分の人件費も上がった今、
今度は多種の食べ物を作り込む事が、
無駄の多いことのように感じ始めました。

作る楽しみも確かにあったんだけどなー、と。


こう、いろいろ紆余曲折はありますが、
今の本音は
行ってしまえばとにかく食べるしかない"食べ放題"の店に、
誰か強引に連れて行ってくれないかなー、が望みなので、

単純にけちくさい食いしん坊に落ちついたんだと思います。



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