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フリーレンの「葬送」~アニメ一話 感想~


アニメ初見勢の『葬送のフリーレン』

最近、人生でやり直したいと思っていることがあった。ぼんやりと、それは「青春」なのだろうと考えていた。そんな中、金曜ロードショーで『葬送のフリーレン』を観たとき、何かを見つけた気がした。それがこのブログを書いた動機である。答えは出ないかもしれない。それでも書きたいという思いで、フリーレンの旅に対して感じた「まぶしさ」について考えてみた。

人生は何事かをなすにはあまりに短い

最初に感じたのは、フリーレンが過去を取り戻そうとすることへの違和感である。正確に言えば、現実世界の私たちは、フリーレンのように巡業しながらかつての思い出を確かめることはできないということだ。

フリーレンは、ヒンメルの死に際して彼のことをもっと知っておくべきだったと後悔した。そして、当初は「人」を知るため、後には「ヒンメル」と再会するため旅をする。私たちもみな、フリーレンのように後悔したことがある一方で、それをたどっていくことはできない。時間に追われているからだ。過去にとらわれている余裕がない。まさしく、私たちには「人生は何事かをなすにはあまりに短い」のである。しかしフリーレンは、何千年という寿命によって、「時間の中」を生きているので、何十年もかけて思い出をさかのぼる旅が可能となっているのだ。

もっとも、逆説的だが、10年という冒険における時間は、「人」のこと、ひいては「ヒンメル」のことを知るには、フリーレンにも短かったようだ。少し不思議な話である。

人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが何事かをなすにはあまりに短い
『山月記』

フリーレンの「長寿命」が「過去」への巡業を可能にしていると理解して、次の話題に移りたい。それは、フリーレンがフェルンとしている「旅」についての捉え方である。

私一人じゃ、この日の出は見れなかったな 

「旅」の目的は、魔法の収集と人について知ること(後に魔王城へ向かいヒンメルと再会すること)ではないの?、と読者は言われるかもしれない。私がここで聞きたいのは、「人について、ひいてはヒンメルについて知ること」がどのように達成されるか、である。フリーレンが、かつてヒンメルたちと歩んだ道をたどり、思い出を呼び覚ましていく意義、とも表現できる。まさに物語の核心部分だが、これについてキーとなるシーンがあった。

グランツ海峡で、フリーレンとフェルンが新年祭の日の出を見るシーンである。

フリーレン:「うーん、確かに綺麗だけど、早起きしてまで見るものじゃないな、ヒンメルは私のこと分かってないな。フェルン、帰って二度寝」
フェルン:フリーレン様、とても綺麗ですね
フリーレン:「そうかな、ただの日の出だよ」
ーでもフリーレン様、少し楽しそうです。
フリーレン:「それは、フェルンが笑っていたから、、っ。私一人じゃ、この日の出は見れなかったな」
ー当たり前です。フリーレン様は一人じゃ起きられませんからね

アニメ『葬送のフリーレン』 魂の眠る地

ヒンメル一行と来たときは寝坊して見れなかった新年祭の日の出を、三十年越しにフェルンと共に見ることができた場面。ここで補足をすると、「ヒンメルは私のこと分かってない」とのセリフは、かつての新年祭の昼頃に、寝坊で来なかったフリーレンに対してヒンメルが問いかけたやりとりに由来する。

「僕たちはね、きみにも楽しんでほしかったんだよ」
「ただの日の出でしょ、楽しめるとは思えないけど」
「いいや、楽しめるね、(中略)君はそういう奴だからだ」

アニメ『葬送のフリーレン』 魂の眠る地

ここではフリーレンの重要な人物像が描かれている。今回の新年祭でも、「早起きしてまで見るものじゃない」と最初は言っていたのに、フェルンが笑っている隣で、「少し楽しそう」な様子を見せ、そして「私一人じゃ、この日の出は見れなかったな」とまんざらでもない感想を漏らす。

これはフリーレンが、フェルンの感動を感じ取り、それを自分の感情として一緒に抱えた、ということになる。つまり、周りが楽しければ自分も楽しくなる、同じように感動できる、フリーレンは「そういう奴」なのだ。他人の目を通して、その人の視点で世界を見て、共感する。そんなフリーレンの一面である。

ここで、フリーレンとフェルンの旅の目的に話を戻すと、二人は過去の勇者パーティーが訪れた場所をめぐっているが、フリーレンはそこでヒンメルたちとの思い出を振り返るとともに、ある種の過去の清算、捉え直しをしている。

ターク地方の銅像と蒼月草、グランツ海峡の新年祭、魔族クヴァ―ルの再討伐、その折々で、フリーレンは過去の思い出を捉え直している。そこで、知らなかったヒンメルの一面を知り、彼と旅した時にはできなかったことを再現する。

この、過去の「捉えなおし」「再清算」は何によって今達成されているのか?それはすなわち、「他者の視点」、ヒンメルとフリーレン以外の第三者の語りを通すことによってである。薬草師のおばあさん、フェルン、スカートをめくったクソガキ爺さん、彼らの発言によってフリーレンは、ヒンメルの知らなかった側面やかつての発言の意図を知る。

これはまた、先ほど新年祭のシーンであげた、「他者の思いへの共感」と同じことだ。おばあさんや爺さんがヒンメルについてどのように語っていたか、フェルンが新年祭の日の出をどう感じているか。フェルンの感動に共鳴するような「他者を通した視点」を、おばあさんや爺さん、(老いたアイゼン)との対話に持ち込んでいくことで、少しずつフリーレンはヒンメルに近づいていく。物語の構造が見えてきた。

では、フリーレンの持つ「他者を通した視点」「共感」という力はどこから来るのか、なぜそれが重要なのか。それは、フリーレンがかつて、人からそれを受け取ったからに他ならない。その人物はもちろん、ヒンメルである。

君のこの先の人生は

かつてヒンメルは、フリーレンの思いに「共感」し、「フリーレンの視点」で物事を語り、フリーレンに寄り添おうとした。フリーレンが今しているのは、かつて自分に寄り添ってくれたヒンメル、そしてその時は理解できなかったヒンメルの思いを、かつてヒンメルにしてもらったようなやり方で、掴んでいこうという試みなのだ。

物語冒頭、ヒンメルは語り掛ける。「君のこの先の人生は、僕たちには想像もできないほど長いものになるんだろうね」。ヒンメルはフリーレン以上にフリーレンのことを考えていた。フリーレンがこの旅で、当時のヒンメルの思いを理解したとき、自分に共感して寄り添っていたヒンメルの思いに、時空を超えて気づいたとき、フリーレンはどんな表情を見せるだろうか。

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