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【舞台は小樽】2月は呪いの季節〜パティスリーシノノメの事件録〜第5話

第5話 呪詛 


おんみょうじ?

 弥生の凍り付いた思考回路の中で、その単語が繰り返される。

 何だったっけ?アニメか映画で聞いたような気がするけど…。

 それを問いただしたかったが、今はやめた方がよさそうだ。

 猫が急に動きを止め、土門の立ち位置より、少し前に後退する。

 灰色人間は全滅していたが、腰を高くする猫の威嚇ポーズに、まだ事態が終わってない事を悟った。

「博臣様、別のモノが近づいています」

 こちらを振り返った猫は、鋭い牙の並んだ口を開け、明瞭な言葉を女性の声で発した。

 弥生は、色々な意味で耳を疑った。

 猫が喋った事のみならず、その声の主は、弥生の知っている人物のものだったからだ。

「分かっている。こちらが本命のようだな」

 土門は正面から一切目を離さない。

 弥生の見ている前で、ゆらりと水面が波打つように、部屋の奥の空気がたわむ。

 水位が下がっていく様子を真上から見ているように、それは徐々に姿を現した。

 女だ。ただし、異様に背が高く、手が不自然に長い。

 腰まで伸びた長い髪は、まるで生き物のようにのたうっている。

 弥生は、今朝見た夢を思い出していた。

 夢では見えなかったその顔に、弥生は息を呑んだ。

「…優子?」

 女の目が、明らかに弥生を捉える。
 頭蓋骨の目の窪みのような、虚ろな穴。

 ばん!と激しい音が響いたと思った途端、弥生は正面から肩を強く押された。

 女は、土門の目の前に迫っていた。一瞬で距離を詰められたのだ。
 後ろによろけ、尻餅をついてしまう。

 立ち上がろうとするが、足に一切力が入らない。膝が震えてしまっている。

 だが土門は微動だにしない。

 肩を押された瞬間に、縦と横に引かれた線が、土門の前で光ったように見えた。

 その線に怯んだ様子の女を、背後から猫が前足で押し倒した。
 ぎぎっ!と、虫を潰すような不快な音がつんざく。
 長い手をばたつかせ、女はもがいていた。

「そのまま足止めしてろ」
「承知しました」

 やはりあの猫の声は、着物姿の音羽のものだ。

 頭の情報処理が追いつかない。

 土門は腕時計を見て、あと十分か、と呟くと、唐突に弥生の方を振り返った。

「こいつが御手洗さんにかけられていた呪詛だ」
「呪詛…ですか?」
「呪いの事だ。決して強くはないが、一般人が触れ続けて平気でいられるものじゃない」

 体調悪いんだろ?と聞かれ、弥生は答えられなかった。
 疲れや、風邪だと思っていた症状は、呪いによるものだったという事なのか。

「…触れ続けたら、どうなるんですか?」
「名前のつく病気か、大けがでもして入院かもな。最悪、死ぬ事だってあり得る」

 煽るふうでもなく、土門は冷静に『死』を口にした。

 死ぬ?私が?
 死んだらどうなるの?
 お父さんとお母さんに会えるの?
 会えるなら…会ってみたいな。

 弥生がそう思った途端、猫が抑えていた女が、大きく暴れた。
 猫は更に体重をかけ、それを阻止する。

「思考が死に傾いているな」

 まるで弥生の心を読んだかのような言葉だ。

「あんたにも友人や家族がいるんだろ?あんたはその人達に、死を望まれるような人間なのか?」
 徐々に怒りが募ってくるのを感じる。

「…分かったような事言わないでください」

 私に家族はいない。友達だって…優子だけだ。

「私はあなたの事知らないけど、あなただって私の何を知ってるっていうんですか!?」

 弥生の精一杯の怒りを受けても、土門はやはり、一切動じない。

「そうだな。過ごした年月だけで言えば、俺は優子に遠く及ばない。でも、御手洗さんを見ていたら、分かる事だってある」
「え…?」

「名刺交換した時、俺の店に興味を持ったから、取材したいと言ってくれたんじゃないのか?幼馴染が出るライブを、本当に楽しみにしていたから、俺に伝えてくれたんだろ?」

 思いがけない言葉に、弥生はリアクションができなかった。

 単に、仕事だったり頼まれたりしただけだ。

「それに、なぜ俺の作ったケーキの写真を見たいと言ってきたんだ?」
「それは…」

 あの時見せてもらった、素朴で可愛らしいケーキの写真を思い出す。

「…あなたみたいに無骨そうな人が、どんなものを作るのか、見たかったから…」

 はぁ?と頓狂な声には、苦笑いが混じっていた。

「それ、誉め言葉なのか?」
「いやその…もちろん誉め言葉に決まってるじゃないですか!」

 状況も忘れ、恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じる。

 それはどうも、とぶっきらぼうな声は、どこか優しく感じられた。
 何かが、弥生の中に沁みわたっていく。

「色々苦労は絶えないのかもしれないが、それでも、自分なりに責任を持って、物事に向き合っている人なんだと思った」

 何故ここまで言い切れるのだろう。
 この二日間で、ほんのわずかな時間を過ごしただけだというのに。

「俺自身は、あんたを助けたいと思っている。だから、あんたの口から聞かせてほしい」

 弥生を見つめる目には、一切迷いがない。
 ぐちゃぐちゃになっていた思考が、すっと鎮まるのを感じた。

「あの呪詛を、どうしてほしい?」
「…祓って、ください」

 土門は小さく笑って、分かった、とだけ言った。

 弥生はこの時初めて、土門のズボンのポケットに薄手の缶が挟んであるのを見た。
 ペンケースのような缶から、あの縦長の紙片を取り出す。

 何かを唱えながら、チョキを閉じた指で紙片をなぞると、ふっと息を吹きかける。

「あいつから御手洗さんを見えにくくする。だから、終わるまで一切声を出すな。できるな?」

 頷きながら、ごくりと呑み込んだ息が苦しい。

 土門はかがみこんで、弥生に紙片を貼ろうとした。
 その手が、不意に止まる。

「怖いか?」
「…怖いですよ」
 恐怖で浅くなっていた呼吸で、どうにか声を出す。

「でも独りじゃないから、怖くないです」

 視線を上げると、土門と目が合った。
 強くて真っ直ぐなその目が、ふっと綻ぶ。

「必ず無事に家に帰してやる。もう少し待っててくれ」

 土門はそれだけ言って、弥生の喉の窪みの下あたりに紙片を貼った。
 糊も何もないのに、体に吸い付くように固定される。

「今から十分間…いや、八分間は、何が起きても無言で頼むぞ」

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