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ルードヴィヒはゆるがない〜交響曲9番 4楽章〜

ベートーヴェンは、何十年も前に第九交響曲の合唱に参加した時から、特別な存在だった。当時はネットも何もないが、レコードの解説や音楽辞典を読んで、第九を作曲した経緯を調べた。それから、チェロを弾くようになり、何回第九を弾いたかな。

合唱と4人のソリストが入る4楽章は変奏曲、あの有名なテーマが出てくる前に、そのテーマが一旦溶解して溶けてしまった様な断片をチェロとコントラバスが、次々と演奏する、そして、1.2.3楽章のテーマにも触れて、やっと有名なテーマに辿り着く。

最初は、チェロが聴こえるか聴こえないかなの大きさでテーマを演奏し、2回目にはバイオリンがメロディを演奏して、チェロは美しいオブリガートを弾く、そこに、ファゴットがもう一つ別のメロディを絡めていく。

そして、そして、とどこまでも変奏は続いてゆく

実は4楽章の1番初めにファンファーレの様な部分がある。その最初の和音は、当時としてはびっくりする様な不協和音、音を出すのが勇気がいる様な響き。ここを演奏する度に、この響きをベートーヴェンは、自分の耳では聞けなかったのだなといつも思う。

そして始まる、低音の主題の演奏を弾く時、ベートーヴェンは響きを身体で感じたかったのだろうかと思う。チェロを弾いていると自分の身体に振動がくることがある、ベートーヴェンは低音の振動を感じただろうか?

ふと、そんなことが頭をよぎると、涙が出そうになるが曲がそんな感傷を許す間もなく次々押し寄せて呑み込まれてしまう。

第九の歌の部分の歌詞は、まだ耳の心配もない若い頃から作品に取り入れたいという構想を持っていた事を、最近本で読んで知った。様々な価値観を踏み越えて、迫ってくる言葉に(日本語訳だけど)若い頃夢中になった。

ベートーヴェンは聴力を失ったことを含めて、様々な演劇やミュージカルの題材になり、悲劇の人と表現されることも多いが、ルードヴィヒはゆるがない、表現したかったものをどこまでも、形に残している、こんなの弾けるかー!!こんなん歌えるかー!!と当時の演奏家と喧嘩してたんではないかな?


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