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中越地震から19年

この地震は2004年10月23日17時56分、旧山古志村が全村避難になったり、旧川口町で震度7を記録したり大きな被害が出た。

私は当時音楽教室の仕事で、仕事場にいた。震度5弱で揺れたと同時に全市で停電し、しかも余震がとても多く
はじめの揺れが収まり他の講師さんや生徒さん達と外の駐車場へ避難しようかと相談している間に次の揺れが来た。
迎えに来ている保護者の方にお願いして、手分けして生徒さんを送ってもらう算段をしてから歩いて直ぐの自宅に向かった。その時に、電気ポットのコンセントを外しブレーカーを落とす事を忘れなかった。

その頃まだ中学生の息子が1人で留守番をしていたが、あまりの余震の多さに近所の人が皆外に出ていた中に混ざり、車に乗せてもらったり、おにぎりをもらったりしてお世話になっていた。震度5弱の揺れは、揺れた!と驚くけど物が落ちたりという被害はほとんどない。電気がついていて、余震が多くなければそんなに大騒ぎしなくて済んだと思うが、停電して真っ暗になったのは大きかった。地震のあった時間帯は、日没後でもう真っ暗になっていたが、半月から太り始めた月が早くから出ていたので、月明かりはありがたかった。
余震の中、暗い家の中にいるのは嫌なので、駐車場に置いてあった自動車を取りに行って家の近くに駐車して所要のため遠出していた主人と娘を待った。

まだ連絡が取れいない保護者の方に電話したり(当時のシンプルな電話器は停電でも通じた、また、携帯は発信規制がかかり、電話出来なかった)車の鍵を取りに家に入る時は怖くて、靴のまま家に入った。
本震から2時間程の間に10回程の揺れを感じた、公園などの平らなところに立っていると、足元が波打つように揺れる感じは忘れられない。

やがて帰ってきた主人と娘と車の中でこれからどうする?と言っている時に、石川県の知り合いから発信規制をかいくぐって電話が掛かって来た、後で分かったのだが、色々な所から電話をもらったらしいが、唯一通じた電話だった。

で、近所の主人の幼馴染のお宅でロウソクの光の中豚汁をご馳走になり、家に戻ってラジオを聞いていると夜中の12時頃に電気が通じた、もう石油ファンヒーターも、こたつも出ていたが暖房が使えず、余震が続いたのでベッドに行かずにこたつで雑魚寝のようにして眠った。
電気が通じてパソコンを立ち上げたら、親戚からメールが何通も来ていて電話をしても、県外から電話が通じなかったことがわかった。
この地震は、直接の被害はなかったけれど、上越新幹線や関越自動車道が不通になる時期が長く生活に影響があった。また、最初に震度5では被害はないと書いたが、地盤の悪いところでは家具や機械類が倒れて大きな被害を受けた事を後で知った。同じ震度でも、同じ被害と限らないと知った。

新潟県中越地震から丸3年を待たずに、2007年7月に新潟県中越沖地震が起こった。震源地は日本海、日本全国から見たらほとんど同じような地域でまた震度6強の地震が起こり、たくさんの建物が倒壊して、被災の経験をした。1番の教訓は、一度起きてもまた地震は起こるという事。

人口の多いとこで地震があったら、食べるものに事欠く悲劇が起こるかもしれない、ぜひ備えを。


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