戦国武将・四国の覇者・鬼若子【長宗我部元親】

国人領主の元親の祖父は岡豊城を追われて長宗我部氏は衰退の状況にあった。

元親の父・長宗我部国親が生き残りをかけて盛り返しをみせた時代に元親は誕生した。

長宗我部21代当主で、天文8年(1539)に、岡豊城で長宗我部国親の長男として誕生する。

土佐の国人から一代にして、戦国大名に成長すると阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと争って四国に大勢力を拡げた戦国武将。

永禄三年(1560)に、長浜の戦いで23歳で初陣を飾った。織田信長が今川義元を襲撃した桶狭間の戦いの年。姫若子と呼ばれ、戦は不向きとみられていた元親は初陣で奮闘し武功をあげて周囲を見返す活躍。

天正三年(1575)、従三位に叙せられていた公卿の一条兼定と土佐の覇権をかけて四万十川で合戦し、元親は完勝し一条兼定を追放し土佐を統一。

土佐統一後に織田信長から四国での勢力拡大を容認され阿波へ侵攻。信長と元親はそれぞれの正室が共に斎藤家出身の誼もあって関係良好だった。

天正九年(1581)に、畿内での連戦に勝ち続けて一部を除く畿内平定を果たした織田信長は三好康長と同盟を結び、四国征伐を決断。

信長の畿内統一が確定的になったことと、長宗我氏が四国で一大勢力となり従わせることが困難になりかねないことを懸念しての決断と考えられる。

長宗我部氏存続の危機の天正十年(1582)に、織田信長が明智光秀に本能寺で討たれた。

信長と元親の外交を明智光秀が務めていたので、本能寺の変の引き金に四国征伐があったのではないかとする仮説がある。

天正十二年(1584)、信長の死で織田家内乱中に、土佐、阿波を掌握した元親は讃岐、伊予と四国の大半を手中におさめた。

秀吉が大軍を派遣するまでの間、仙谷久秀が長宗我部の抑えを担当し、国境前線に居留した。

天正十三年(1585)、秀長を総大将とする四国征伐の大軍を結成、讃岐、伊予、阿波を攻略されて元親は降伏した。
本拠地の土佐一国のみを安堵され豊臣家臣となった。

天正十四年(1586)、元親は豊臣軍の九州平定の先鋒として、軍監・仙谷久秀率いる戸次川の戦いに従軍した。この戦で大敗し、長男の長宗我部信親が戦死。

信親の死後から、能君で徳の高い人物と評されていた盛親は変貌したといわれる。

後継者に四男の長宗我部盛親の家督相続を強行し、反対するものは一族であろうと粛清していった。後継者を失い、家督争いの混乱を避けるために強権を発動させたのかもしれない。

天正十八年(1590)、小田原征伐に長宗我部水軍を率いて参戦。文禄元年(1592)は朝鮮出兵に従軍と、豊臣家臣として積極的に働いた。

慶長四年(1599)、秀吉が亡くなった翌年に伏見邸にて死去、享年61。

その翌年に関ヶ原の戦いが勃発し、長曾我部氏は改易で一瞬で領土が消えてしまった。

中国の毛利氏、九州の島津氏、と並んで西日本三大勢力に数えられる。

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