戦国武将・信長の信頼厚き織田家四宿老【丹羽長秀】

天文四年(1534)生まれで、信長のひとつ年下。丹羽家は尾張守護の斯波氏の家臣。守護代の織田家に鞍替えした家系。

信長にとっては初期からの家臣で、猛将や参謀といった尖ったところは無いものの文武両道のユーティリティープレイヤーとして重宝された。

元亀元年(1570)に信長は浅井、朝倉の両氏と激突。長秀は姉川の戦いや浅井家臣の磯野員昌の佐和山城攻めに参戦。員昌が降伏した後は佐和山城主に任命される。

天正元年(1573)には長秀は信長より若狭の国主を任された。織田家の家臣で最初に国持大名となったのは、光秀でも秀吉でも勝家でもなく、長秀。

天正四年(1576)から信長の一大事業である安土城の普請では、長秀が総奉行を担当。秀吉は縄張奉行に任されている。

長秀は信長のもとで、裏切者や態度の曖昧だった大名の始末なども任された。

天正十年(1582)は甲州征伐に信長に従軍して後詰めとして参加するが、先鋒隊の快進撃で後詰めの出番はなく撤収。安土城で家康の接待、そして大坂へ移動する。

長秀は大坂でも家康の応対をしていたが、三男の織田信孝を補佐して四国に渡って長宗我部元親の攻略に向かう予定であった。出陣の準備中に本能寺の変で主君の信長が横死した。

清洲会議で秀吉を支持する姿勢を示す。長秀は勝家に次ぐ二番家老という立ち位置であったが、実力をつけた秀吉と衝突することもなく秀吉派として動いた。秀吉は織田家筆頭の長秀の立場を利用しつつ天下取りを進めた。

天正十三年(1585)、小牧・長久手の戦いには参戦できず、この年に長秀は死去。

長秀の長男の丹羽長重は秀吉に仕え、関ヶ原では西軍についたため改易される。小大名へと復帰すると着実に加増して寛永四年(1627)に陸奥白河十万七千石の大名となった。

改易後の大名への返り咲きも稀だが関ヶ原で改易された後に十万石以上の大名を賜ったのは丹羽長重と立花宗茂の二人のみ。

長秀の死後、丹羽家重臣の長束正家は秀吉にヘッドハントされ算術能力を買われ財政や太閤検地の実施など内政で活躍。豊臣五奉行に名を連ねた。

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