戦国武将・黒衣の宰相【太原雪斎】

今川家譜代の家臣の家系で明応五年(1496)に誕生。若くして出家し京都五山の建仁寺で修行した臨済宗の僧侶。

天文十二年(1543)に、建仁寺派を離れて妙心寺派に転じ、法名を太原崇孚(すうふ、そうふ)と改めた。

雪斎は今川義元の全盛期を築いた重鎮で、雪斎が生きていれば桶狭間の敗戦はなかっただろうと言われる。

大永三年(1523)ごろに、太原雪斎は義元の父、今川氏親に五男の方菊丸(後の今川義元)の養育を頼まれた。雪斎と義元はこの運命的な出会いによって乱世へと踏み出すことになった。

大永六年(1526)に氏親が死去すると、長男の氏輝が家督を継いだ。雪斎は京都五山の建仁寺、妙心寺で幼少の義元とともに修行を積み、京都の公家や文化人との関わりを深めた。

天文五年(1536)に氏輝の謎の死ともう一人の義元の兄の突然死で義元が主君に担ぎあげられた。

兄二人が亡くなったことで突然当主の座に座った十代の義元を、幼少期からの保護者であった太原雪斎が導いた。

兵糧米の上がらない領土で、金山開発に注力し金の生産量を飛躍的に伸ばすなどで駿河を一躍豊かな国へと変貌させた。

天文十七年(1548)に織田信秀と三河の覇権を巡った小豆坂の戦いでは、雪斎は総大将として、掛川城の朝比奈泰能を副将に出陣し織田軍を撃退する。

織田信秀と敵対関係となると、東方の国と友好関係を築くため、天文二十三年(1554)に武田信玄、北条氏康と善徳寺の会盟で甲相駿三国同盟を結び、尾張の支配を狙う。同盟に伴い義元の嫡子の氏真に氏康の娘の早川殿が嫁いだ。雪斎はこの同盟の成立に大きく貢献した。

弘治元年(1555)に内政、軍事、外交の要の雪斎が死去する。そして弘治三年(1557)には朝比奈泰良も病死。雪斎に続く補佐役の朝比奈泰能の死は義元にとって痛手であった。その数年後に桶狭間の戦いで、今川義元は織田信長に討たれた。

信長が戦国の主人公となり、最初に撃破されたボスキャラとして今川義元の研究や設定作りが進められた。その義元の側近には黒衣の宰相・太原雪斎の存在は大きい。

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