戦国武将・信長古参の家臣「槍の三左」【森可成】

大永三年(1522)に誕生した。美濃の斎藤家に仕えていたが織田軍に転任。

信長の古参の家臣。柴田勝家と同年代で信長のひと回り上の世代。

信長と信行との家督争いが勃発すると信長は信行側の名代の柴田勝家と戦った。このときに信長を支えた古参の将に、佐久間盛重、佐々成政、河尻秀隆らとともに、可成も名を連ねている。

美濃斎藤氏との戦では永禄八年(1565)に烏峰城を攻略すると可成は烏峰城の守将となり、城持ちの武将へと出世。烏峰城はのちの金山城で、可成の討死後は森長可、森蘭丸と森家の居城となる。

可成は信長上洛後の畿内平定でも活躍。三好三人衆に数えられる岩成友通の勝竜寺城へ柴田勝家らとともに先鋒で出陣して攻略。

可成は愛用の十文字槍を装備し、槍の三左の異名を持つ。二男で鬼武蔵と呼ばれた長可も十文字槍「人間無骨」を愛用する猛将に育った。

可成は十文字槍に、黒一色のシンプルな鎧、個性的で存在感のある兜と、威圧感のある武具・甲冑姿で敵に恐怖を抱かせることにも工夫していた。

信長の電光石火ともいえる機内平定に貢献し、岐阜、京都の導線を守るために築城された宇佐山城の守将を任される。

元亀元年(1570)、信長の本軍が本願寺との和睦交渉で不在の機に、浅井、朝倉連合の三万の軍が宇佐山城を襲撃。

十倍の兵力差のなか、守将の一人の信長の弟の織田信治とともに可成も討死にした、享年四十八歳。可成を失った宇佐山城で可成の遺臣や守備兵は寡兵ながら長政の追撃に激しく抵抗し、撤退させて宇佐山の落城は免れた。

可成の死後に家督を継いだのは二男の森長可で、信長の嫡子の信忠の元で先陣きって戦う猛将として活躍。

三男以下の森蘭丸、坊丸、力丸は小姓として信長に召し出され、本能寺で命果てるまで信長の近くで仕えた。蘭丸は秘書として有能だった。

二代にわたって信長に手厚く仕えたが、信長の死とともに可成の子三人は討死に、家督を継いだ長可も信長の後継者争いの内戦で討死に。

若き信長に仕え宿将として活躍を遂げた。信長の天下統一への道半ばで落命したが、織田軍団の礎を築き、信長の野望への道をひらいた。

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