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夜の寺町通り

 その晩は、ちょっとした苦しさが魚の骨のように喉に引っかかっていた。未読にしたままのLINEのこととか、読めずに溜まっていく本のこととか、そんなほんの小さなこと。
 友達に電話をかけるには些細すぎて。でも、一人で寝てしまうには、きっと息苦しい。そう思った私は、少し遠回りして寺町通りを歩いて帰ることにした。

 寺町通りは、その名の通り、寺がひたすらに並ぶ一本道である。キリスト教が厳しく弾圧されていた長崎で、仏教徒であることを証明する必要があった…というこの土地ならではの理由も相まって、2つの神社と14社の寺がずらっと横一列に並んでいる。歩いても歩いても寺が現れ続ける光景は荘厳で、少し奇妙ですらある。それらの微妙な違いをとらえながら散策をするのが、観光地としての寺町の醍醐味であるが、夜はまた違った雰囲気だった。 

 夜の寺町は、ほとんど人が歩いていない。石畳と漆喰で構成される道は、昼間よりさらに色彩を薄くして、厳かな顔をしている。自分の足音と息遣いだけが、冷たい石畳に響いて、やけに鮮明に聞こえた。ふと見上げると、ごつごつとした寺の軒裏が、橙色の街灯に照らされている。じんわりとした、あたりを溶かしていくような橙色。なぜかその灯りが目に染みて、私は慌てて涙を堪えた。

 親元を離れ、長崎で暮らし始めたのがちょうど半年前。優しいけれど過干渉な両親と境界線をひくように飛び出してきた。6畳のワンルームは、私がようやく手に入れた自由と自立の象徴で、ラジオをかけながら下手な料理を作るのがたまらなく楽しかった。唯一心配していた友達作りもうまくいき、「長崎のアジフライがおいしすぎて、こっちに引っ越してきちゃった!」とおどけて笑った。時折母からかかってくる電話に「みんないい人やからなんにも心配いらんよ。元気にしとるよ。」と覚えたての長崎弁で答えたのも、全部本心だった。本心のつもりだった。

 でも、そうか。
 私は心細かったのか。
 やわらかい灯りが隠してきた私の強がりをほぐしていく。夜の寺町には、そんな温かさがあった。 

 いつのまにか、寺町の終わりがみえてくる。寺町通りの端は長崎で一番の繁華街につながっていて、一気にネオンの色が弾けた。「鍛冶屋町商店街」と書かれた虹色のアーチがてかてかと点滅し、二階のスナックからはまだ火曜日だというのにすっかりできあがったおじさん二人組が楽しそうに降りてくる。眩しくて、騒がしい、いつもの街。
 すーっと風が顔に吹いてきて、ついでにお腹が空いてきた。かつおぶしのいい匂いにつられて、6つ入りのたこ焼きを買った。
 よし、あしたからも歩いていける。私はたこ焼きの袋をしゃかしゃかとぶら下げながら、そんなふうに思った。


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