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石清水八幡宮 【お能聖地巡礼記 #1】
◉能楽の「聖地巡礼」をせんと欲す
京都府八幡市男山に存する、石清水八幡宮に参詣した。能「弓八幡(ゆみやわた)」の舞台となった神社である。
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趣味でお謡とお仕舞の稽古をつけていただいているので、お能に関係の深い場所や舞台となった土地を訪れる「聖地巡礼」を目的としたものである。
私は、お能の「聖地」を全て巡り尽くしたい、と思っている。もちろん「全て」と言っても私の目に留まる限りの範囲で、という意味だが。
詳しい方には周知のように、能楽は室町時代に現在につながる元型が整えられ、世阿弥をはじめとして多くの作者により無数の作品が生み出された。
そして数百年の内に喪われてしまったものも当然ながら多く、現代にまで伝わり、かつ上演され続けているものは、せいぜい200番そこそこではなかろうか。それでも最低200箇所(重複する場合もあるが)は舞台となった土地、場所があるという事である。
また伝わっているが上演されていないもの、断片的な詞章(台本のテキスト)のみ残っているもの、題名や内容を示唆する文言だけが文献の中に登場するもの…など、数え上げればキリが無いし、調べ尽くす事は不可能である。
蛇足を重ねると、お能の中には中国が舞台になっているものもあり、その辺は俄然ハードルが高まって来る。何らかの機会があればツアーを組んで行ってみたいが、今のところ予定はない。
そんなことで、小学生の頃に諦めた「図書館の本を端から端まで読み尽くす」にも似た、決して目的地に辿り着くことのない旅を、始めてみようと思い立ったのである。
幸い私は京都市内に住まいしているので、多くの聖地を訪れるには抜群に足場が良い。
この極めて私的な記録をお読みいただく方にも、各所の観光日記としてお楽しみいただければ幸いである。
◉京阪電車で「石清水八幡宮」駅へ
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駅名が変わってから初めて訪れたくらい、ご無沙汰の八幡宮駅。
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エジソンが電球を発明し、フィラメントに使用する素材として様々なものを試験し、最終的に八幡の竹を使って成功した、という変わったエピソードを持つ場所でもあり、駅前のロータリーには因みのモニュメントが設置されている。
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また、駅からすぐ近くには宇治川、桂川、木津川の三川合流地点があり、そこに築かれた「背割堤」は、今では桜の名所として多くの観光客で賑わう。
※参詣時は既に桜は散り、遠目に堤を眺めても全く「名所感」は無かった。残念。
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伏見区淀出身の地元民である妻いわく、昔は観光客など殆ど立ち寄らない場所だったらしく、地域の人々の格好の花見スポットだったのが、ここ10年くらいで急に人が増えたとの事。
新しい道の駅なども出来て、宇治〜伏見〜八幡を繋ぐ観光回廊が形成されつつある。
御幸橋の方から八幡側を眺めると、目的とする石清水八幡宮の鎮座する男山が大きく目に入って来る。
男山、というのは急峻で城を作れば攻めにくい山のことだと、どこかで聞いた気がするが、この山はそれほど標高は高くない。ただ、周りが川に囲まれたような低水地にポコンと飛び出したような山であるから、守る方に利が大きそうではある。
◉石清水八幡宮とは
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石清水八幡宮は、貞観元年(859年)に豊前の宇佐八幡宮より勧請し、平安京の守護としたのが始まりとされている。
八幡大神すなわち応神天皇と母神である神功皇后、そして比売神の三柱を御祭神としてお祀りしている。
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本殿は鳩が嶺と呼ばれる山上にあるのだが、山裾にも摂社、末社や頓宮、極楽寺などがあり、門前町にはお店も多く出ている。
徒然草では仁和寺の法師が山上の本宮に気づかず帰ってしまったくらいだから、往時は門前町も相当な賑わいを見せていたのだろう。
また「石清水」の名の元となった井戸と天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)を祀る石清水社が山の中腹に建てられている。
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石清水とは読んで字の如く、岩間から絶えず清水が流れ出るとの意であり、冬に凍らず、夏も枯れぬ水源が重宝され神聖視されたのは当然のことであろう。
八幡大神の勧請前から、この地には「石清水寺」があったとする記録も残っているらしく、信仰の対象としての男山の歴史は、恐らく京都盆地に人が住み始めた頃にまで遡り、その周囲は巨椋池によって隔てられた山城国の南の中心地として、また河内や大和への交通の要所として、古くから栄えた地域であったに違いない。
◉能「弓八幡」と石清水八幡宮
能「弓八幡」では、八幡宮の初卯祭に陪従(べいじゅう=勅祭において神楽や東遊等の舞を舞い、さらに囃子を司る官人)として訪れた後宇多上皇の家臣が、数多い参詣者の中に不審な老人を見つける。
実はそれは神様の仮の姿で…という典型的な祝言物のパターンなのだが、ここに登場する神様は山上の八幡大神ではなく、麓にある摂社の神たる「高良神」である。
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なお、高良社の社殿を建立したとされるのは、八幡大神を勧請し「八幡宮」を創建した行教和尚その人であるが、仏教に帰依するお坊さんが、ご神託を受けて八幡大「神」様を勧請したり、産土「神」を祀る社殿を作ったりしている。おまけに、目の前の川に禽魚を放つ「放生会」という仏教的儀式を中心とした祭礼を、天皇が主催する勅祭としてみたり、何の違和感もなく神仏が習合されている事が良く分かる。
それはさておき、当地の産土神である高良神が、老翁に姿を変えて現れ、桑の弓、蓬の矢で世を納めた神功皇后や応神天皇の功績、そして八幡宮創建の謂れなどを物語り、ご神託を疑うなと話して姿を消す。その後、本来の姿で官人の前に現れ、当世の御代を寿ぎ、八幡大菩薩の神徳を讃える舞を舞って消えてゆく。
大成版謡本、二十四世観世左近による曲趣解説では「八幡大菩薩をシテとしないで、末社の神の影向を見せたところに、周到な敬神的省虜がうかがはれる。」とあるが、同解説によるところでは、高良神とは即ち武内宿禰の神霊であるらしい。八幡大菩薩=応神天皇と、その母たる神功皇后に深く仕えた武内宿禰をして、応神天皇や神功皇后の功績を讃えしめること、子孫たる現在の朝廷への祝意を表せしめること、これは八幡大菩薩本人(?)が自分語りをするよりも一層朝廷の権威を高める効果があろう。
また、皇室の祖先神となる八幡大神を能楽師が演じることは、流石に畏れ多いことだったのかも知れない。そんなことを考えながら、再び京阪電車での帰路についたのである。
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◉おまけ 展望台より京都盆地を臨む
山上の本殿から少し山肌に沿って標高を下がったところに、京都盆地を一望できる展望台がある。
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桂川や国道1号線を北上し、京都市内までを文字通り一望できるロケーションである。この平たい盆地を守るには、必ず押さえておかなければならない場所だと感じた。現代においても三川合流地のすぐそば、川向こうの大山崎とセットで河内へ抜ける細い「口」を形成している。
さらに、秀吉の京都改造以前は、現在の伏見区淀周辺から向島、宇治橋近辺まで、広大な巨椋池が広がり、大和との人・物の往来に関しても木津川が重要な役割を果たした事だろう。
つまりは西と南から京都盆地にアクセスする際の「玄関口」に当たるのが男山という立地な訳だ。
もちろん、都の裏鬼門を守るという考えもあっただろうが、それだけでは済ませられない地政学的な重要性を備えた土地であった事は、織田、豊臣、徳川とこぞって修復の為の寄進を行なっていることからも、想像に難くない。
そこに勧請されたのが、天皇家の祖先神でもあるがそもそも武威の象徴のような八幡大神、そして神功皇后であるということも、時の為政者に戦略上の要所として認識されていたことの傍証になるように思える。
貞観年間と言えば、朝廷では藤原北家が人臣として初の太政大臣や摂政となり、この世の春を謳歌する絶頂期の始まりであり、国外では超大国・唐が安史の乱以降みるみる国力を衰微させ、統一新羅も内乱と分裂の兆しが顕れ、というような時代であり、日本の人々はいよいよ国内に関心を集中させ、貴族を中心に日本独自の文化が花開き、実を実らせようとしている頃であった。
藤原北家出身の皇后から生まれた清和天皇が即位し、元号が変わったタイミングで皇統の正統性を強く意識させるような神宮を戦略上の要地に建立する、そのことは天皇家と一体となり藤原北家が国家鎮護を担っていくのだ、という猛烈な政治宣伝とならなかっただろうか。
悠久の年月が過ぎ、数えきれないほどの人間の思惑や情念がこの地を流れ去り、全て忘れ去られた後に残された社殿と風景。草木や花々は今この瞬間も我が世の春を謳歌しているが、自分がピラミッドの頂上から下界を見下ろしてでもいるかのような、何とも言えない無常感が私の中に去来した。
ただただ、木々の緑は眩しく、花は美しかった。
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おしまい。長々とお読みいただき、深謝いたします。
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