ウィトゲンシュタイン著「論理哲学論考」を読んで

Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.
(語りえないことについては、沈黙するほかない)

独:Logisch-Philosophische Abhandlung

概要

本著は、人類史における難問を一挙に葬り去るという野心的な目標を掲げている。ここでいう難問とは、「世界とはなにか」「私とはなにか」「人生の意味は」などである。これらの問いによって、いつの時代も我々人類(とりわけ、高い思考力を持つ者)は囚われ、時間と気力が奪われる。しかも、当人はそれに気づかない(本著によれば”気づけない”)のが尚更タチが悪い。

所感

読了後は、「こういった問いを考える自分は孤独ではなかった」という一種の安心と、「我々が取り扱うことのできる問いは思いのほか少ない(ほとんど語るべきものではない)」という諦念、人間はちっぽけであるという謎の納得感を感じる。

思考の切り口(からの示唆)

  • 本著の結論は(解が全く途方もつかないような)問いに対する、「沈黙する」という解答の一種である。これからの時代求められることは、「答えを探す」から「問いを立てる」ではなく、まさしく「問いを区別する」ことなのではないか。そして、”余計な”問いに首をつっこみあらゆるリソースを無駄にするのではなく、有意義なことに取り組むべきである。

  • 美と倫理は同等のものである、つまり絶対的価値の権現であり、これも語りえない。語りうるならそれは相対的価値へ変容している。では、芸術も語りえない。音楽家や芸術家もまた相対的価値の枠組みの中にいるのだろうか。

  • 倫理自体だけではなく、それを取り巻く今、この現状が不可解である。つまり、多数の人が支持する共通項が確かに存在する。「人を殺してはいけない」「人のものを盗ってはいけない」などがこれにあたる(もちろん一部のサイコパスなど例外は存在する)。人間は限定合理性に基づき意思決定をする(サイモン、ノーベル経済学賞受賞者)というが、これらの多数解もまた局所解なのだろうか。

  • 我々は死を経験することはない、死は単なる終わりである。つまり、私は永遠である。この事は、簡単な思考実験の結果として結論付けることが可能である。つまり、とある事象を経験するというのは、事象の起こりと事象の後を比較した差異を観察する事である。とした場合、事象の後(=自らの死後)は知覚のしようがないため、死は経験できないことになる。他者の死は経験できる一方で、自らの死に対しては沈黙しなければならないことになる。しかしながら、キリスト教では、死者は天国・地獄・煉獄と分かれるという。イスラム教も似ており、死後に審判が待っている。仏教は輪廻という概念(生きとし生けるものすべては、輪廻転生する)を持つ。これらの死生観(=死全般を語る、特に死後について)はなぜ生まれるのか。

まとめ(問いかけ):読者諸君は上記の切り口をどう思うか。ぜひコメントいただけると幸いである。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?