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黄色い家を読んだあとのとりとめのない感想

川上未映子の長編小説『黄色い家』を読んだ。
読み終わって、さまざまな感情と感覚、印象が頭の中に無数に散らばって、どういう感想を持つのが正しいのか、しばらく…多分ほんとうにしばらく考えがまとまらないような気がする、そんな本だった。

それでも、読んだあとすぐの今の気持ちをこうして記しておきたくなったので
まとまりはないのを承知で記してみたいと思う。

まず、いちばん印象に残っているのは花の真面目さとまっすぐさ、黄美子さんのなんと表現していいのかわからないよるべなさだ。
黄美子さんのそれは、純粋とかそういう単純な言葉で表すことのできない存在感で、ただひとつ言えるのは、世間が、この世界が、敢えてまともに見ようとしない種類の人間がもつ性質を持っている人物ということで
それはこの物語ーー花がつき進んでいくことになる物語の核になっていたと思う。
はじめからその性質を無意識ながら見ていた花が、金と家に対する幻想によって追い込まれていく中で世間や世界にもみくちゃにされてだんだんとその性質から離れていき
最後にはそれを利用してなかったことにするー
そのことで花は一見まともな生活が、最低限ではあるけど人並みの生活が送れるようになったわけで
それは、世の中の大半の人が黄美子さんを見る花のような眼差しをひとかけらも持っていないからこそ何かがおかしいことに気づきながらお金と権力に支配されたこの世界で涼しい顔をして生きていることを物語っているように感じた。
それでも最後、花にああいう行動を取らせ
黄美子さんをああいう風に描ききった川上未映子さんのスケールの大きに、私は何よりも感動したんだと思う。

金によって人生が狂いだし転がり落ち自分を見失い周りの人もみな去っていく
生まれた時から金がない人間がそういうスパイラルに嵌っていく無情さ
そういうものも確かにこの小説には描かれているし、それをあんな風に嘘くささや見下ろすような視線ではなく同じ地面に立って臨場感をもってその世界を、こちらまで息苦しくなるくらい描く事ができる作家はそんなに多くないと思う。

でも、そういう事以上に
いい人間と悪い人間ーーそれを隔てているものはんなのか。それは誰がどうやって判断しているのか。法が裁けることはどのくらい意味があるのか。
法的に悪いことをした人間としたことのない人間に、ほんとうに違いはあるのか。
正しいことが、正しくジャッジされない世界は存在する意味があるのか?
そういうことを考えさせられるような、自分はどうなんだ、と問われているような
そういう川上未映子さんの凄さが
今回のこの小説にも宿っていた。

最後に。
川上未映子さんには、この先もなるべく長く本を書いてもらって、もっともっとすごい小説を読ませてくれることを期待せずにいられない。感謝。

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