見出し画像

chatGPTに思うこと

優等生であり、教科書的なchatGPTへの違和感

話題のchatGPTですが、使っていて、自分のものの見方について知ることができました。私とchatGPTの相性は悪いようで全然期待通りのことをしてくれないです。
多分は思考回路の問題(私の)。
chatGPTの言語世界と私の言語世界が水と油のようで、私の思考回路がchatGPTと合致していないせいだと思われます。

数学やプログラミング的思考をする人は的確な質問ができるだろうし、そもそも期待している答えが今のAIが得意なことなんだと思います。
2021年までの情報から回答を導き出しているとのことですが、その性能はすごいです。chatGPT-4の性能はもっといいそうなので、私が使っている3.5より的確な答えが得られることと思います。また、まだ日本語対応がまだよろしくないとのことで、今後の進化が期待されます。

私が物足りなく思うのは返ってくる答えが優等生的教科書的なところ。絵に描いた餅のように「確かにそうなんだけど…」と思うのですが、「そこじゃないんだよね」となってしまいます。

反対にそれを思った時に、自分は文章を読む時にその文字情報だけを受け取っているわけではないということに気づきました。その文章に含まれる言外のこと。それがとても大きいようです。

言語情報はたったの7%

人のコミュニケーションは言語を使っているようで、実は言語以外のジェスチャーや声の質、トーン、雰囲気、表情などの言葉以外の情報がほとんどだと言われます。メラビアンの法則によると、言語情報7%、聴覚情報38%、視覚情報55%と言われます。
文章では声のトーンやボディランゲージは関係ないですが、それでもその文章から伝わる非言語情報の影響は大きいようです。今のところはまだその非言語情報はchatGPTは表現できていないので、機械のような回答に私は違和感を感じるようです。

対面のコミュニケーションはもとより、文章ももしかして言語情報7%、行間情報93%ぐらいなのかもしれません。その文章の用途にもよりますが。この行間情報は、単語や文章やそのコンテクストを見ることで得られる自分の主観的なものなのでしょう。
今のchatGPT3.5の文章はそこにつながりにくい文章です。別に紐づけなくてもいいですが、私は自動的にやっているようです。それができないchatGPTの文章に当惑しているのだと思います。

文章から読み取る非言語情報

「この人の書く文章は好きだ」という時、文字情報外の何かを受け取っているからそう感じます。その人の考え方や姿勢、生き方、価値観、人生観、世界観、歴史、哲学、時代性、文化背景などが見え隠れすることで、その文章のエキスを受け取っています。

人の心を動かす文章は文字で書かれていること以外の影響が大きいです。俳句なども少ない字数のなかで、文章によって書かれていること以外の情報を私たちに与えてくれます。言葉や文章を読んでいるのではなく、そこから想起される内的情動にアクセスしています。

教科書をおもしろくないと感じるのはそういうことなんだなと思いました。極力、人の気配を消しています。そうすることで情報が偏らないようにしているのでしょう。それでもなお偏った情報をもっともらしく伝えることができているので頭いいです。

今のchatGPTの回答には非言語情報が含まれていないので味気なく感じます。無意識にそれを求めるのは私の問題なので、それが気にならない人にとっては全然問題ではありません。
おかげで、自分がそういうコミュニケーションの仕方をしていたんだなと気づいた点が大きな収穫でした。エンパス系の人たちは同じだと思うので、その違いを感じてみられると逆に、普段自分がどういう情報を読み取っているのかが見えきます。

そのうち性能が上がってくるとその部分もいずれクリアされることでしょう。
私も、chatGPTの得意なこととそうでないことを使いながら学んでいるので、そのうちうまくやりとりできることを期待します。

行間にこそ可能性が広がっている

しかしながら逆に、今のchatGPTが作り出す文章に人々が慣れてしまうのは怖いです。SNSの記事投稿などをchatGPTを使ってする人も増えていくでしょう。そういう文章をよく見かけるようになれば、多くの人が知らぬ間に今のAIと同じ思考になっていきそうです。

修正がかかったきれいな顔ばかりの広告や、スーパーで均一に並んでいる野菜と同じように、情報を与えてはくれるけど、そこにいのちがふきこまれていない。
外側ばかりがきれいで画一的な世界。
そして、そこから外れると異端視される。
行間がない世界。

それに慣れて当たり前になってしまうと、反対に、そこから外れてしまうものには違和感を感じます。いびつな形や虫に食われた野菜がスーパーに並ばないのは人が買わないからです。

そつなくきれいにまとめらているものをを「良い」「美しい」としてしまいます。知らぬ間に「みんな同じ」に染まってしまいそうです。日本はもともとその傾向がありますが、下記の文章を読んで日本だけじゃないことに気づきました。

考えてみると今に始まったことではありません。世の中に流行やブームはありますから。しかし今は世界中の情報を見ることができます。見ることができるがために、以前よりも皆、同じようになっていっているとも言えます。
現代は多様化しているようで実は画一化に向かっています。

インターネットでは個人が好みそうな情報を優先して表示してくれます。すると自分の興味関心のあること以外が見えなくなります。気をつけないと自分の思い込みの世界に埋没します。情報が氾濫しているがゆえに狭い世界に閉じ込められてしまうというのもおもしろいですね。

実際は、文字情報よりその行間にこそ可能性が広がっています。気をつけないと大事なものを見落としてしまいます。だからこそ、感性を高める、抽象度を高める、身体能力を高める、自然に触れることが必要になってきます。
バーチャルな世界に接することが増えるほどに、リアルな感覚の世界も充実させていくことでバランスがとれた感性が養われていきます。


この記事を書いた4ヶ月後に、進化したchatGPTに驚いた話を書きました↓。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?