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ものに意識はあるのか、ないのか?

物に意識があるかないか?と聞かれれば、「ない」と私は答えます。が、後天的に付加されるものをふまえると「ある」と答えます。

以前『幽玄な世界に想いを馳せる」という記事を書きました。今日はその続きですが、その時「もののあはれ」について面白い記事に遭遇したので、それをもとに今日は書きます。

『言の葉庵』というサイトの『【日本文化のキーワード】第一回 もののあはれ』からです。
後半部分ですが、『「もの」(物)とは、現代日本語では、生命のない対象物、英語のThingの意味のみになっているが、本当は「もの=物」とは、「ワケのわからないもの」という意味がある』とあります。そこにある引用にこう書かれています。

日本人にとって、ものはもの以上である。もののけという言葉があるが、あの「もの」は、じつは目に見えぬ精霊のことである。つまり、魂をものといっている。
『源氏物語』にしても、必ず舞台に小道具が出てくる。光源氏が女性と知り合うときに、たとえば夕顔なら夕顔の花と釣瓶が出てくる。それから薄がなびき、萩の花が庭を埋め、という舞台設定が行われる。つまり、ものによって、人と人のドラマが始まる。
というのも、日本人にとってものというのは、西洋人のいういわゆる物質ではない。ものは、広い天然宇宙の自然と人間との間のひとつのきっかけ、橋渡しのようなものであり、ものが出てきてはじめて、その背景にあるドラマの舞台に人間はすわることができると考えている。
それに対してキリスト教の場合、神が橋渡しとなって人間と人間がつながる。したがってカトリック世界では、つい近ごろまで神を通じて結ばれた男女は離婚できないというルールがあったわけだ。
日本人の場合、そういう絶対的なキリスト教の神に代わるものが、ものであった。それはなぜかというと、絶対的な自然の象徴であり、ものを手がかりにして、人間の世界は目に見える真実界へと広がっていくからである。(『利休と日本人』栗田勇 祥伝社)

その後、記事は能の話になります。

栗田氏のいう「もの」とは、天台宗本覚思想の「草木国土悉皆成仏」、すなわちこの世のあらゆるもの、山、川、海や空気にいたるまでの、仏性が宿る霊的な存在のことなのです。この存在が、人間界・現実界と霊界との”橋渡し”を担うことをよくあらわしているのが、能の世界。

能の世界もそうだし、アニメでも多用されてますが、仮面をつけている存在は、実体がこの世の人であろうと、半分あちらの世界(異界)に足を突っ込んだ存在と化します。あるいは異界からこちらの世界を訪れる存在。あちらとこちらの世界を行き来できます。

日本の古代の信仰の方面では、かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが、代表的なものであった。(中略)古代日本人にとって「もの」は単なる物質ではなく、カミ・オニ・タマと同様、具体的な形をもたない霊的な存在だと考えられていました。

針供養、人形供養、眼鏡供養、百鬼夜行、式神など、物が生き物のようになるという考えは日本人には馴染みがあります。ただしこれは、物そのものに初めから意識や魂があったというよりは、後天的に想念が付着したり、意識が生じるケースが多いです。人が関わるがゆえに生じるわけですね。

かみ(神)やおに(鬼) 、物の怪は、人が関与する以前からすでに一つの生命体、あるいは霊的存在であると思われてます。それもまた情報であり、人が認知するからこそ生じるのだから、人の関与なしではあり得ない、人の意識が生み出したものということもできます。

さて、先ほどの記事はその後、アニミズムに向かい、『<マナ>というメラネシア人たちに信じられている、超自然的な存在・力・霊性』の話に移ります。

つまり〈マナ〉とは宇宙に遍く存在する、超自然的で神秘的な力であり、自然界のあらゆるものの中に自由に出入りし、背後から動かし、エネルギーを与える。それは人間・自然物・自然現象を通じてあらわれるものだというのです。
〈マナ〉と類似の言葉・概念・信仰は、世界のいたるところでみられるものでしたが、日本語の〈モノ〉も〈マナ〉の転化ではないか、とする説があります。

ここあたりになると、さらに抽象度高く、人知を超えた力となり、形が与えられていません。私たちはそれを扱うことはできますが、人の意識によって生じたものではないレベルです。かみ(神)やおに(鬼) 、物の怪も受け取り方によってはそうなりますが、人格化してしまうと、どうしても人の意識が生み出したものとなってしまいます。

その「人知を超えたなにか」に、カタチや名前を与えない、人格化しないことで、人の意識の介入が少なくて済みます。「モノ」ももともと「マナ」と同じような意味合いだったかもしれませんが、「自然界のあらゆるものの中に自由に出入りし、背後から動かし、エネルギーを与える」ので、物に取り付いた霊的な存在とされていったのかもしれません。

神を上に置き、人間を中心とした思想は社会を統一するのに都合が良いです。そのため、(人が作り出した)神が支配するのではなく、自然界の混沌とした無秩序なエネルギーを扱うものは異端、邪教、未開民族の低級な妄想とされてきました。
キリスト教会が自然と人間を切り分けて、人間中心の世界を作り上げましたが、世界を見てみると、そちらのほうが異端である、と何かで読んだことがあります。
それもまた一つの世界観です。多くの人がキリスト教徒になったのはそこに救済を見たからでしょう。人間ならではの問題を救うのに必要とされたのだと思います。もちろんそこでは政治的策略がふんだんに用いられたとは思いますが。

人間も自然に含まれますから、この超自然で神秘的な力の恩恵は大いに受け取っていたはずです。が、現代人は自然から切り離されてしまい、その存在を忘れ、受け取れなくなってしまいました。
今はまた再びその力がパワーを持ち始めています。星の配置や集合的無意識や自我の進化も関係していると思います。

エゴの自分がすべてではない。エゴではない領域の自分、そちらの方がパワーを持つし、自分のほとんどの領域はそちらが占めています。私たちの多くはまだ眠っている、あるいは夢を見ています。

ちっぽけなエゴの自分によって展開されている世界のうしろには、膨大な情報の世界が広がっています。その領域に気づけば気づくほど、自我領域が拡大し、エゴ意識が薄れ、超自然の世界に入っていきます。
本来、人間はそちらの世界の住人だと思うので、今見ている夢に目覚めた人は、人知を超えた世界に圧倒されることでしょう。

・・・と書きながらも、私はまだまだこちら側の人です。子供の頃はそういう世界を知っていた気はするんですけどね。でも覚えてません。
幼い頃にはあたりまえだったであろうその世界を、いろんな知識や経験を得たのちにまた見出し始めています。青い鳥の話のように、最初からあるんだけど、人生という旅を続けながら、それとは違う世界を体験を経たのち、私はやっぱりこちらだなと戻ってきた感あります。回り道をした分、自分にしっくりくるものがあります。

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