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2023年1月のメッセージ

1月は行く。あっという間に行ってしまいます。
今年の抱負は?とか、今年は何をしようか?とか考えているうちに過ぎ去ってしまいます。
今年は何が起きるのかわからないので、今年の予定を立ててもそれが実現できるかはわかりません。今月はまだゆるい感じですが、今を生きることの重要性をだんだんと感じてくる日々となりそうです。

今月は楽しく過ごしましょう。
今あることを十分に噛み締めて瞬間瞬間を大切にしてください。

できれば、テレビは消し、家族で話をする機会が持てるといいですね。近くにいるとついないがしろにしますが、あなたにとって大切な存在です。一緒にいられる時を楽しみましょう。

太陽暦では新年を迎えましたが、旧暦の新年はまだ先です。
そういう意味で1月は少し宙に浮いた月です。

新年であり、新年でない。移行の時期と言えます。
新しいことが始まるようで始まらない。表面上の仮スタートです。

しかし私たちは新年を1月1日からとしています。
太陰暦に従わず、グレゴリオ暦に従っています。

私たちがいかに自然から遠ざかり、つくりごとのなかで生きているのか、それを感じる月になるでしょう。

何もかもうわべだけ、あるいは、うそっぱち。
この世界の上澄みのきれいごとに気づき、唖然とする人も出てきます。
もっとそういう人が増えるといいのですが。

上澄みが好きな人たちが多いので、薄っぺらい現実が現れます。それを好まない人たちは、上澄みの下にあるものを見ます。
多くの人はそれを怖い、汚いと言います。しかし下にある泥濘から見上げると上澄みの薄っぺらさが見てとれます。

表面上では滑り落ちるように物事が進んでいきますが、下の泥濘ではゆっくり事が運びます。時間の流れが違うのです。

私たちは上澄みの方を主に見ていますので、時の流れを早く感じますし、変化も早いように思います。それは軽い感覚です。

下の泥濘の変化はゆっくりじっくり、しかし確実に大きな変化をもたらします。私たちが心に留めておくべきことはこちらの変化です。上澄みは気にしなくてもいいというより、気にしない方がいいです。

泥濘が一体どのように変化してどこに向かうのか、そちらに意識を向けましょう。すぐにはわかりませんが、それは巨大な地龍のごとくになっていきます。

それが目指す先はどこなのか?
今はまだわかりません。静かにじっくりと上層部(上澄み)の動向を見ているようです。この流れは、3月に向かって地底を這っているような印象です。ゆっくりと、ゆっくりと。

多くの人がその動きに意識を向けると、それはこちらに気づきますが、上澄み部分で忙しい人たちが気づくことはありません。そこを客観的、あるいは斜に構えて見ている人たちが気配に気づきます。

もしあなたが、その地龍的な流れに(今はまだ地龍でなく、泥濘の流れです)気づいたのなら、その声に耳を傾けてください。

ある時、声が聞こえるでしょう。あるいは、何かのサインに気づくはずです。
皆が同じように受け取るわけではありません。それぞれがぞれぞれに合ったカタチで受け取ります。

受け取ったのであれば(それは1月とは限りません。2〜3月かもしれません。多分、春分まで)、やるべき事が出てきますので、それを実行してください。

3月から大きく事象が変わりますので、それに向かって進んでいくことになります。上澄み部分にいると気づきにくいですが、下の泥濘にいると兆候に気づきやすいです。

世論やメディア、日常生活の忙しさ、悩み事、思考停止した人たち、メディア洗脳されている人たちが上澄みにいる人たちです。本質を見失っている人たちと言えます。上っ面な部分しか見えてない、考えてないということです。

もっと事象の真相を見る人たちは「兆し」を察知しやすくなります。
地龍の背に乗って進んでいくと良いです。

比喩的な書き方をしているので、なんのこっちゃ?と思う人もいるでしょうが、比喩だから応用が効きます。含みの意味もあり、複数の解釈ができます。ある程度の抽象度が必要となります。

これからは自分の頭で考える力が必要です。応用力や想像力、発想力です。

今月はそういう力を身につけるためのなにかをするのもいいでしょう。すぐに身につくものではないですが、身につけたいと思って行動を起こすことは大事です。
クリエイティブに過ごししょう。

「和音」2023.1.3


追記:

書いている時は思いませんでしたが、書き終えて読み返している時、「2023年のメッセージ」に出てきた「集合的無意識の統一化」という言葉を思い出しました。

今、私が思うのは、ここに書かれている「泥濘」(のちに「地龍」に変化)は「集合的無意識」のことではないか?ということです。
うわべではなく、本質を見ようとする人たちが増えると、今は泥濘状態の流れがだんだんと地龍に形作られていくのではないか?と思いました。地龍と書いてますが、集合的無意識の流れと見ることもできるかと思います。

泥濘が龍の形になるというのは、集合的無意識がどの方向に向かって進んでいくのか?の象徴的言い方。
つまり私たちの意思決定や思い描くこと、信じていることがその流れを決めていくということ。

それにより何が起きるかを察知したり、流れを変えたりする事ができるのでは?
そういうことを言っているのかな?と思いました。

3月に向かってどのように、私たちの集合的無意識が形作られるか?ということが次の展開のポイントになりそうです。

世の中のおかしな動きに気づく人が多ければ多いほど、その動きを変えることが可能になることを示唆しているように思いました。そのためには、今は泥濘状態の無意識に、地龍を形作る方向性を与えられる集合的無意識を育む必要があるのでしょう。

という解釈を私はしました。あなたならどう解釈しますか?

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