スマホを落とした
今日あったこと
今日、バイト帰りに自転車をこいでいた。買い物をして帰ったので、自転車のかごはパンパンだった。
途中で雨が降ってきて、結構本降りになってきた。怖がりすぎるのでいつもは安全運転で帰るけど、今日は濡れて風邪をひきたくないと思って急いで帰った。
家に帰ると鞄に入っているはずのスマホが無くなっていた。帰ってきて無意識に取り出しているのでは?と思い、母親に電話をかけてもらったがどこからも音はしない。そういえば道の途中でがっちゃん!といつもとは違う感覚があったような気がしたが、軽く振り返ってもなにもなかったし道が凸凹しているのでそのせいだと思い、スルーしたことを思い出した。もしかして、あの時のがっちゃん!は、スマホを落とした時の音??と思い当たり、来た道を戻ってみた。時間はもう6時を過ぎていて暗かったため、自転車のライトだけを頼りにがっちゃんと鳴ったスポットを探したが見つからなかった。
やっぱり落としたらさすがに気づくだろうと思い、家に帰って家をもう一度探したが、なかった。もう一度道を探して、なかったら交番に行こうと思ってまた同じ道を通ると、道のブロック塀のようなものに、何か光るものが置いてあった。まさかとは思い見てみると、落としたスマホだった。
道に落ちていたスマホを端によけておいてくれるだけではなく、暗い中で目立ちやすいようにライトをつけてライトを上にして置いてくださった方に、私は感動した。きっと、ライトがついていなかったら気づかなかっただろうと思う。気遣いと想像力に感謝だ。感謝を伝えられないことが非常にもどかしい。今度もし、暗い道でスマホが落ちていたらおんなじようにライトをつけて上に向けておいておこうと心に誓った。もし、これを読んだ人で、落ちたスマホを見つけた人がいたらぜひ実践してほしい。
思ったこと
もう一つ、この経験をして気づいたことがある。それは自分の冷静さと諦めの速さだ。スマホを落としたかもしれない、と思ったとき私はまず、どこに落としている可能性が高いか、どのタイミングまでは持っていたか、帰り道何か違和感はなかったか、といろいろ考えた。
見つからないかもしれない、と思い始めたときも、「やばい!どうしよう!」という感情にはなぜかならず、次に何をすべきかを考えた。
がっちゃん!の時に落としてそのまま車に踏まれてぐちゃぐちゃになっていたら、それはそれでしょうがないから自腹で新しいのを買おうと覚悟した。
落とした時点で誰かに盗まれて犯罪などに使われていることを考えると「大変だな、一番厄介だな」とは思ったけど、めんどくさい以上の感覚は特に浮かばなかった。
(なんならスマホが無くなる、使えなくなるかもしれないことに関して特に焦らなかったことが、スマホ依存症を覚悟していた自分にとってありがたいことでもあった。つぶれてたら話のネタになるなっていう感情すら芽生えていた。)
そう考えてみると、私は人生であまり焦ることがない。
なんでもどうにかなると思っているし、今までどうにかならなかったことがないからだ。というか、自分にとってどうにかならないことって死ぬことで、死ななければどうにかなっているという風に解釈してしまうため、どうにかならないことなんて今まであるはずがないのだ。
だから車にひかれそうになったときとかにヒヤッとして焦るのは、「死ぬこと以外かすり傷」という精神が無意識のうちに存在しているからだろう。死にたくはない。
だから周りの人が感情的になって「やばい!!どうしよう!!」とかなんとか言っているのを見ると、「ああいいな、こんなことでこんなに感情的になれて」と本気で、嫌みとかではなく羨ましく思ってしまう。生きること以外に執着できて、感情的になれるのってなんか豊かだなって思う。
こんなに冷めてるのに生きることにだけは執着できるのは逆に奇跡だと思うけど、私は最高齢おばあちゃんとしてギネス記録に乗ることが夢なので、その夢をかなえるために、生きることへの執着は辞めない。
こんなことを書いているが、私が言いたいことはただ一つ。
スマホは落とすな。