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ひけめ

先輩Aの!!話を!!します!!最近は先輩Aの話と大親友(という形容が合っているのかはわからない)Aの話をしている時しか生きた心地がしません。イニシャルも名前の文字数も母音も一緒なの面白すぎる、なんなら顔も似てる。私の好みってこういう雰囲気の人なんだなって。
しかも最近気づいた、声質も似てる。終わりです。解散。

Aのことを知りたかったら叶うな劣情を読んでください。一個上の同じ学部で、たまたま同じ講義を取っていて、一時期隣の席で、偶然同じサークルに所属しているだけのただの先輩です。最近タメ口が解禁されました。やったね。

Aをネトストし始めて今日でちょうど一ヶ月が経ちます。(2024年7月19日現在)
私はAの優しさと感性に惚れ込んでいるが、その気遣いの源がきちんと両親からもらった愛であるというところに安心すると同時に絶望した。

愛着障害、というほど私と親との間に確執があるわけではないが、母に対する多大なコンプレックスと父に対する嫌悪感、そしてそんな両親から受け継いでしまった私の中の暴力性とヒステリーをひどく憎んでいるので、両親のことは尊敬しているものの、心から「産んでくれてありがとう!」とも言えないのが今の現状だ。

愛を知らなかったわけではない。ただ、「特別扱い」のやり方を知らないまま大きくなった。

Aの話に戻ろう。とは言え私の話から始めると、私は「特別扱い」のやり方それ自体を知らなかったから誰にでも平等に冷たかった。微かな温かさに気づいてくれた人からしか好感を得られなかった小中高時代。高校二年の序盤でその歪みに気づけたが、いまだに人を特別に扱う方法は得ていない。

Aと初めて会った時、正直怖いと思った。Aが、というよりかはたまたま振り分けられたグループに男性しかおらず、その上一年生は私だけときたから純粋に怯えた。変に気を遣われるのも申し訳ないし、こういう状況で蔑ろにされたこともあったからどんな態度で挑めばいいかわからなかった。Aのことを気にする余裕もなかった。

Aは優しかった。それを初め、下心からくるものだと思った。大体そうだった。
Aは優しかった。誰にでも平等に暖かかった。誰にも「特別扱い」ができないのが私とするのなら、誰にでも「特別扱い」をするのがAだった。

挫折を知っている人だった。親に恵まれ、友人に恵まれ、けれど虐げられた過去もあって、そこから自分の力と周囲の救いで這い上がって、その愛に報おうと生きている、と約四百件のポストを全て読んで納得した

這い上がる過程で創作に縋った、その姿は自分にも覚えがあった。
しかしなぜ、こうもAが書く物語は明確に救いの糸が見えるのだろう。
答えは単純だった。ベースとなる蓄積された愛の総量が違うのだ

Aが家族のことをどう形容したと思う?
前向きであったかくて希望と愛に満ちた空間、だって!

自分が幸せな家庭に生まれたことを、Aははっきり自覚していた。だから無責任に、「親に感謝しなければならない」と突き放す人ではないことはわかる。

だから、だからこそ、私はAに必要のない人間なのだ。

Aの近くにいてはいけないし、自分のことをAに話してはいけない。
良き友人にすらなれないかもしれない、けれど私、確かに救われたの。

もう歩幅を合わせてもらわなくても、ちゃんとついていけるくらいには速く歩けるようになった。
けれどついていくために割かなきゃいけない労力のせいで、本来みんなが当たり前にできるはずの気遣いや努力が出来なくなっていた部分はあって。
だから歩幅を、歩く速度を合わせてもらえたあの100メートルは忘れられない。
あなたのことを最大限尊重して、大切に扱いたいと思ったんだ。

Q.大切なものって何?
A.今失くしたそれ

ずうっといっしょ!/キタニタツヤ



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