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【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #34「ふたりの紐帯」

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スーさんは、回顧する。

…こずえが死んだとき、オレはどうしても東京を離れられず、通夜はおろか、葬儀にさえも参列しなかった。
 
後日、二十八歳の惣一郎が喪主として立派に葬儀を取り仕切ったと、康子から電話で報告を受けたとき、あの狂犬のようだった惣一郎にそのような真似ができるものだろうかと、オレは半信半疑だった。

初七日が過ぎた頃、惣一郎は東京にいるオレに会いたいと連絡してきた。この時、オレは、密かに覚悟した。

こずえを惣一郎から引き離し、悲惨な死に方をさせた挙句、通夜も葬儀も知らん顔を決め込んでいたのだ。
周囲には、オレのことを「老いて醜くなった愛人を捨てて見殺しにした」と揶揄する者さえいた。惣一郎はどんなにかオレを恨んでいることだろう。

オレは惣一郎の恨みを全て引き受けるつもりで、秘書も側近も連れず、約束の料亭に一人で赴いた。

惣一郎は、時刻ちょうどにやって来た。オレの予想に反して、十二年ぶりに再会した惣一郎は、もう狂犬ではなくなっていた。

仲居に案内されて座敷に入り、オレの目の前に座るまで、惣一郎はまるで礼儀作法の手本のように卒なく振舞った。
黒いスーツをきっちりと着込んだ大きな体躯は無駄なく引き締まり、自制的に生活していることを物語っていた。終始、物静かに端座し、言葉遣いも丁寧だった。短く刈り上げた頭は、年齢不相応に白髪が目立った。

あの凶暴で不器用で、常識というものをまるでわきまえていなかった惣一郎が、慣れない土地でたった独り、ここまで更生するのに、どれだけの苦労をしてきただろう。

惣一郎は、オレに手を出すどころか、恨み言さえ言わなかった。オレに対する感謝の言葉を一通り口にしたあと、「母の店を継がせてほしい」とだけ言って、あとは、オレからの質問に対し、言葉少なに応答するだけだった。

惣一郎が去った後、オレは座敷で一人、杯を口に運びながら、さっきまで目の前にいた惣一郎の姿を思い起こした。慇懃な態度は崩さなかったが、決してオレの顔を見ようとしなかった。終始、卓子に落としたままの眼差しは、昔と同様に荒んでいた。

どうしたものか、とオレは思案していたが、康子が自ら手を上げて、惣一郎のサポート役を買って出た。惣一郎は康子とよく話し合い、業態をスナックからバーに切り変えることにした。改装資金は、こずえの生命保険が下りたという態で、密かにオレが出した。

もって一年かと思っていたが、店はうまく軌道に乗った。大らかで社交的な康子と、無口で無愛想な惣一郎の組み合わせは、意外と客受けが良かった。

恐らく惣一郎は、いつかはこずえと一緒に店を切り盛りするつもりで、準備を進めていたのだろう。東京でバーテンダーの養成学校に通い、こつこつと努力を重ねていたらしく、客が満足できる酒を作れるようになるのがとても早かった。

惣一郎は、六月の第二定休日に密かに店を開けて、一人でこずえを弔っている。そう康子から聞かされた時、オレも出向かなければならないと思った。

こずえが死んで三年後、オレは定休日の店のドアを開けた。カウンターの中で独り佇んでいた惣一郎は、突然現れたオレを見ても全く表情を変えず、少し間を置いて、カウンターの一席を指し示した。

そこには、冷菜を盛り付けた平皿と、透明な液体が入った薩摩切子の小さな杯が並べてあった。それらが、こずえへの供物であることは、すぐにわかった。

カウンターの隅には、白い鞠のようなアジサイが生けられていた。この花のことを、オレははっきりと覚えていた。オレがこずえに言い寄っていた時分、ある呉服屋の店先に、この花が咲いていた。こずえはそれを愛おしそうに眺めながら、

「亡夫がとても好きだった花だ。亡夫はこの花を、まるで私のようだと言ってくれた」

と言った。その満たされた美しい横顔を見た時、オレは、必ずこずえを亡夫から奪うと心に決めた。
あれは、こずえに対する愛情ではなかった。会ったこともない亡夫に対し、オスの闘争心を燃やしただけだ。思えばあれが、オレの過ちの始まりだった。

オレは惣一郎が指示した席に黙って座った。こずえが最後に飲んだのと同じウォッカを一気に空け、惣一郎がこずえのために用意した心づくしの料理を口に運んだ。
その間、惣一郎は何も言わず、皿の上から冷菜がなくなっていくのを、暗い眼をして眺めていた。

人一倍不器用な惣一郎が料理屋の戸を叩き、懸命に修行したのは、いつか店を手伝って、こずえを喜ばせるためだったろう。惣一郎のそんなささやかな願いさえも、オレは踏みにじったのだ。オレは涙をこらえてその料理を味わった。

以来、オレは毎年、六月の第二定休日に店を訪れている。惣一郎はオレに対し、一言も話しかけてこない。顔を見ようともしない。それでもオレは惣一郎に話しかける。それが、こずえと惣一郎に対する、せめてもの贖罪だと思った。

八年後。店に若葉が加わった。当時の若葉は、惣一郎と同様に、暗く生気のない眼をしていた。

若葉は、いつも肌を剥き出しにして店の客を誘惑していたが、ただ承認欲求を満たしたがっているだけのようで、見ていて痛々しかった。

惣一郎は惣一郎で、雇うと自分で決めた割には全く無関心な態度で、若葉の方を見ようともしなかった。二人の関係は、何の接点もない平行線のようだったが、康子は少し違った見方をしていた。

「たまに、明け方にモクさんから『若葉が店で泥酔してるけど、自分が見てるから心配ない』ってラインが入るの。モクさんは、若葉ちゃんがこずえさんみたいにならへんように見張ってるつもりなんやろうけど、ほんまにそれだけかしら。
だって次の日に会うたら、モクさんの表情が、なんや優しくなってるの。いつもは奥歯を噛みしめてるから、違いがようわかる。若葉ちゃんも、失恋した割にはすっきりとして、明るい顔をしてるのよ。」

確かにこのところ、あんなに荒んでいた惣一郎の眼が穏やかになり、作り笑いしかできなかった若葉が心から笑うようになったと感じてはいたが、十一月に九か月ぶりで店を訪れたときには、その変貌ぶりに驚かされた。

口数が少ないのは相変わらずだが、誰に対しても無関心で無表情だったあの惣一郎が、客の眼を見ながら話を聞き、相槌を打ち、時折、微笑を見せている。
頼りなかった若葉も、バイトの娘を上手に動かし、店内の隅々にまで気を行き届かせ、万事に抜かりがない。

何より驚いたのが、惣一郎と若葉の関係性だ。二人はカウンターの端と端に陣取りながら、目配せだけで物事を進め、阿吽の呼吸で接客をする。
客の前では決して馴れ合わないが、互いの名前を呼び合う響きにも、互いを見る眼差しにも、何か深いものがある。

オレはしばらくの間、酒を舐めながら二人を観察していたが、その関係性をどうも理解できなかった。

仕事上のパートナーにしては、二人の間の空気が濃い。だが、肉体関係を持つ男女にありがちな腐臭は全くない。恐らく恋愛感情さえもない。
もっと素朴な人間愛を丁寧に撚り合わせながら紐帯にしたような、ささやかだが強固な結びつきを感じさせる。
あの、他人に無関心だった惣一郎が、ただ派手なだけで中身がなかった若葉と、どうやってそのような関係性を築いていったのだろうか。

そして今、目の前で、あの誇り高い惣一郎が、深く恨みを抱いているはずのオレに対し、土下座して助けを請うている。自分のためではなく、若葉のために。


続く

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