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生まれ変わっても、あなたの部下になりたい

こんにちは。鳴海  碧(なるうみ・あお)です。
本日は、私が20代の頃に大変お世話になった上司のことを書いてみたいと思います。

思い出しながら書いていたら、とても長くなってしまいました。でも私にとって、その上司のことを書いていくのは、とても幸せな時間でした。

よろしければ、読んでみてください。




私には、これまでの半生で、心から大切に思う男性が5人いる。夫、3人の息子、そして松村さんだ。

松村さんは、私が新卒入社した会社の名物部長だった。

年の頃は50代半ばで、髪はいつも七三分け。
身長は人並だが、随分と太鼓腹で、やたら声がでかい。
誰に対してもズケズケとモノを言い、社長にも顧客にも忖度しない。それなのに、なぜか許される。

蛮勇を奮い、豪放磊落。
かつ、部下に対して非常に厳しかったので、「松村部にだけは、絶対に行きたくない」という社員が多かった。

新入社員当時、私は別の部署にいた。
そこの部長は優しくてとても人気があったので、周囲から羨ましがられた。

でも私は、他の社員とは少し違うことを考えていた。

「この不況の最中、一人前にならないまま結婚して子どもを生めば、簡単にスポイルされてしまう。早く一人前にならないといけない。そのためには、厳しい上司のもとで叩き上げて貰わないといけない」

私は自分から手を挙げて、社内で最も厳しいと言われる松村部に入った。
当然、周囲は私を変人扱いした。

それにしても松村さんは、本当に厳しかった。
時代小説『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵そのままだった。

暴力などは振るわなかったが、毎日のように部下を大声で叱り飛ばし、説教は2時間近く続いた。その激しさは、ベテランの男性社員でも涙目になるほどだった。

松村さんは、全部員を分け隔てなく叱りつけ、決してえこひいきをしなかった。どんなに興奮しても人格否定をせず、説教が終わればガハハと笑っていた。

松村さんの指導は苛烈極まったが、全くもって的を射たものだった。部員は皆、叩き上げられ、どんな難しい顧客からも信頼された。

私も毎日、叱られた。
そりゃもう、コテンパンに叱られた。
重箱の隅をほじくるように叱られた。
叱られて黙り込むと「お前には自分の意見がないんか」と叱られる。
必死で口答えをすると「人の意見を受け売りするな」と叱られる。
途中で口ごもると「いっぺんついた嘘は、最後までつき通せ」と叱られる。

私が作成した資料は毎度のように、松村さんのチェックで真っ赤になって突き返された。最後のページには決まって、「おまえはアホか!」と大きく書かれてあった。


松村さんとまともに渡り合えるよう、私は一生懸命勉強した。周囲が遊んでいる間も、一生懸命勉強した。

ある日、いつものように叱りつけられて、思わず反論してしまった。丁々発止の対話はしばらく続いたが、最後に松村さんはニヤリと笑って言った。
「よしよし、お前もモノが言えるようになってきたやないか」

あれだけ部下に向き合って、一人一人に本気で説教をして、資料を隈なくチェックするために、どれだけの労力と時間が必要だっただろうか。
部員を率い、指導者として上に立ち続けるために、松村さん自身もかなり勉強していたはずだ。
その熱意がどれほどのものだったか、今になって、ようやくわかってきたことだ。

松村部に入って2年が経った頃。

松村さんは役員に昇進し、部署は解散となった。
部員はてんでバラバラになり、他の部署へと吸収されてしまった。
私もまた、ゆるい部署に配属され、ゆるい部長のもと、なんとも微妙な時間を過ごす羽目になった。

その1年後。

夫が「東京の友達が経営するベンチャー企業に転職したい」と言い出した。

不況真っただ中で、雇用の流動化も進んでいない時代。
足を踏み外せば、一気に奈落の底まで落ちる時代。

そのさなかに、吹けば飛ぶようなベンチャー企業に転職しようとは…。私は、「この人を一生養わなきゃいけないかもしれない」と覚悟した。

夫と子どもを養うには、安定して働き続けなければいけない。
安定して働き続けるには、今の会社にしがみつかなければならない。
今の会社にしがみつくためには、大阪本社から東京支社に転勤しなければならない。

しかし当時、個人的事情での転勤は許されていなかった。

私は、無理を承知で、ゆるい部長に言ってみた。
「東京に転勤させてもらえないでしょうか」

ゆるい部長は、にべもなく言った。
「そんなん、無理に決まってるやろ」

意気消沈している私に対し、元・松村部の先輩たちが、興奮気味で言った。

「鳴海、松村さんに相談しろ。松村さんなら、絶対になんとかしてくれる。松村さんは必ず助けてくれる人や。そう信じられたから、俺らは最後まで付いていけたんや」

「松村さんは、頑張ってるヤツを絶対に見捨てへん。必ず守ってくれる」


私は松村さんに面談を申し込み、力添えをお願いした。
松村さんは、迷うことなく即座に言った。

「よっしゃ、ワシに任せとけ。その代わり、ちょっと時間がかかるぞ。役員会でジワジワと話を通すけども、反対意見が出たらそこでアウトや。慎重に、慎重に進めるからな」

私は松村さんを信じて、じっと待った。

半年近くが経った頃。
松村さんが私の席までやって来た。
そしてニヤリと笑い、「もう大丈夫や」と一言だけ告げて、去って行った。

私は無事に東京に転勤し、一生懸命に頑張った。
3人の息子を生んで、嫌な思いも、辛い思いもたくさんしたけれど、一生懸命に頑張った。

…いつか飛び切り優秀になろう。
「なんで鳴海さんはそんなに優秀なんですか」と聞かれるようになろう。
そしたら、きっと、こう答えよう。
「私が優秀なんじゃありません。私を育ててくれた上司が優秀な人だったんです」

私が東京に転勤して8年後。

65歳になった松村さんは、自ら常務取締役を辞し、顧問に退いた。そして、更に1年後、66歳で勇退した。
その理由を尋ねると、「どんどん若い人たちの時代にしていかないといけないのだから」とのことだった。

私もまた、松村さんの勇退に合わせて退職した。
新卒から15年近く勤めてきたが、松村さんがいなくなる会社に、未練は微塵もなかった。

私が退職する日、東京支社の顧問が私の席までやって来た。顧問は、私が転勤した際には東京支社の支社長だった。
その人が私にしみじみと語った。

「君が東京に転勤してきた時のことを、懐かしく思い出すよ。あの時、松村さんは、『鳴海の優秀さは自分が保証するから、どうか、どうか、東京支社に引き取ってやってくれ』と言って、僕に頭を下げたんだ。あの傍若無人な松村さんが頭を下げるんだもの。僕だって、君を受け入れない訳にはいかないだろう」

松村さんがそこまでしてくれたことを、私は全く知らなかった。
そう、松村さんはそういう人だ。部下のために力を尽くしても、決して恩着せがましく言わない人なのだ。



松村さんが勇退する日、私は、大きなフラワーアレンジメントを松村さんに贈った。
信頼できるデザイナーに「明るくてパワフルな方なので、そのイメージで作ってほしい」と依頼し、そのフラワーアレンジメントに直筆の手紙を添えて、京都のご自宅へと発送した。

私からの手紙には、松村さんとの思い出や、深い感謝や、元・松村部の部員たちの想いを、余すところなくしたためた。そして最後に、「生まれ変わっても、どうかどうか、松村さんの部下にしてください」と書いて締めくくった。

フラワーアレンジメントと手紙が届いたであろう夜に、松村さんから電話があった。電話の向こうの松村さんは、とても晴れやかな声で、何度も何度も繰り返し、「ありがとう、本当にありがとう」と言ってくれた。

その直後、松村さんから長い長いメールが届いた。そこには、私への励ましの言葉が、松村さんらしく緻密に、理路整然と、愛情深く綴られていた。

私はそのメールをプリントアウトし、今でも御守りとして持ち歩いている。

それから3年後の9月。
松村さんは亡くなった。
まだ69歳だった。

松村さんの死を、私は訃報はがきで知った。
死因はALS(筋萎縮性側索硬化症)と書いてあった。先年の初冬に発症したのだという。

そのことについて、私は何ひとつ知らされていなかった。松村さんに会いたいと思いながら、行動に移していなかったことを、私は激しく後悔した。


私は、松村さんからの最後のメッセージを、5月に受け取っていた。

そのとき、私はfacebookに、こう綴っていたのだった。

「小学生の長男と次男が、なんと、運動会の徒競走で1位になった。てっきりビリになると思っていたのに、まさか二人とも1位とは!」

いつもはスルーする松村さんが、この時だけ反応し、メッセージを寄せてくれた。先年の初冬に発症し、9月に亡くなったのだから、このメッセージを書いた時分には、病はかなり進行していただろう。


松村さんから私への最後のメッセージは、簡潔な、それでいて、充分すぎる一文だった。

「お母さんと一緒だね やればできる」







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