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【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #25「北御堂にて」

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十月の定休日。大阪の厳しい残暑も終わり、随分と過ごし易くなってきた。

その日は二人で中之島の東洋陶磁美術館を訪れたが、最寄り駅に向かおうとしたところで、若葉が「ここからだいぶ歩くけど、寄りたいところがある」と言い出した。

二人は中之島を出て南下し、途中で右折して御堂筋に出て、そこからさらに南下する。結構歩いたな、と思ったところで、オフィス街に突然、北御堂の巨大な山門が現れる。
若葉は大階段を上って山門をくぐり、さらに大階段を上って本堂へと入った。普段はそれなりに参拝者がいるのだろうが、今日のこの時間に限っては、人影がない。

コンクリート造の伽藍は天井が高く、正面には、巨大で豪奢な金仏壇が設えられている。若葉は正面へと歩を進め、焼香炉の前で立ち止まると、阿弥陀如来を見上げながら、隣に立つ惣一郎に言った。

「今日はね、死んだ弟の命日やの。もう十五年になるわ。うちは浄土真宗やから、大阪に来てからは、毎年ここにお参りに来てるの。」

若葉は焼香して手を合わせ、念仏を三回唱えると、再び、阿弥陀如来を見上げる。

「弟が死んだ時、あたしは中一で、弟は小一やった。ほんまに可愛らしい子で、あたし、弟のことをめちゃ大事にしてた。そやのに、急に死んだ。なんの前触れもなくパタンと倒れて、救急車で運ばれて、それっきり。」

惣一郎は、随分前からその話を知っている。若葉は泥酔すると、普段は決してしない自分語りをする。

両親は情が薄く支配的で、若葉は愛情に飢えて育ったこと。殴られたことはさんざんあったが、頭を撫でられたことも、手をつないでもらったことも、抱きしめられたこともないこと。

その分、年の離れた弟を深く深く愛していたこと。その弟が突然、目の前で倒れて、半狂乱になったこと。

それ以来、どんな男と抱き合っても喪失感を埋められず、絶望的な寂しさに飲み込まれそうになっていること。

もっとも、泥酔していた若葉は、惣一郎にそんな話をしたことを覚えていないはずだ。

惣一郎は、若葉の話を聞くうちに、若葉の弟の可愛らしい顔立ちや、柔らかい匂いまで想像できるようになっている。
その可愛らしい弟から注がれた純粋な愛情が、崖っぷちから落ちそうになる若葉を引き留め、若葉の純粋さを守ってきたのだ、と理解している。

「弟が死んでからずっと、弟に会わせて下さい、って阿弥陀さまにお願いしてるのに、全然、会わせてくれへんかった。それがこの前、やっと夢に出てきてくれた。そんで、あたしをぎゅうって抱きしめて、『大丈夫よ、僕はずうっとお姉ちゃんと一緒におるよ、お姉ちゃんは独りぼっちじゃないけんね』って言うてくれた。ほんまに嬉しくて嬉しくて、あたしも弟のこと、ぎゅうってした。
そやのに、すぐに目が覚めて…。あたし、一所懸命、夢に戻ろうとするのに、戻られへんくて、もう悲しくて、めちゃ泣いた。それで顔を上げたら、目の前にモクさんがいたの。あの時はほんまに、びっくりしたわ。」

焼香炉から煙が一筋立ち上る。今、若葉はきっと、死んだ弟と心を通わせながら、惣一郎に語りかけている。

「あたしね、弟が死んで、めちゃ後悔したことがあるの。意地悪したこと、ちゃんと謝りたかった。大好きやって、もっとたくさん、言いたかった。
…そやから、あたし、『ありがとう』と『ごめんなさい』と『大好き』は思った時に絶対言わなあかん、って思うてる。次の瞬間に、相手がいなくなってるかも知れへんから。」

そこで若葉は一旦言葉を区切り、隣に立つ惣一郎の手を軽く握った。

「モクさん。あたし、モクさんのことも大好き。いつもありがとう。」

惣一郎は若葉を見る。若葉は惣一郎を見上げて屈託なく笑っている。若葉の眼は、惣一郎に対する感謝や、信頼や、親愛の情に満ちて、キラキラとしている。

…そうか。お前は、そんな明るい眼になれたか。あんなに暗い眼をしていたのにな。

惣一郎は、娘の成長を確認したように嬉しくなって、若葉の小さな手を軽く握り返し、

「…それはそれは、光栄やな。俺も阿弥陀さまに感謝するか。」

そう言って、かすかに笑ってみせた。

それから二人は、なんとなく手を繋いだまま北御堂を出て、徒歩で梅田方面へと向かった。御堂筋のイチョウ並木が青々と茂っている。今年は一際猛暑だったから、初冬には見事な黄金色の並木道になるだろう。

「あたしの名前、モクさんが考えてくれたんでしょ?なんで『若葉』って名前にしたの?」

「…さあ。店の名前が『こずえ』やから、丁度ええと思うたんかな。」

「それだけ?」

惣一郎は少し迷ったが、素直に答えることにする。

「…若葉は、春に芽吹くやろ。お前には必ず春が来て、いっぱい芽吹いて、いっぱい花が咲くとええ、と思うた。そんなとこやな。」

「ふふふ、モクさんらしい。」

若葉は嬉しそうに小さく飛び跳ねる。

「あたしも、モクさんがなんで『モク』って名前にしたんか、やっと、わかったわ。恩田木工のお話、最後まで読んだから。」

「…あれ、ほんまに読んだんか。」

「頑張って読んだわ。もう、めちゃ長いし、難しいし、途中でめげそうになったけど、頑張って最後まで読んだ。それであたし、モクさんは、自分が恩田木工によう似てるから、自分の呼び名をモクに決めたんやな、ってことが、わかったわ。」

惣一郎は、若葉を見る。若葉はイチョウ並木の緑を見上げながら話を続ける。

「恩田木工は陽キャで、モクさんは陰キャやけど、他はよう似てる。二人とも、優しくて、賢くて、我慢強いもの。モクさんは、誰も見てへんところでも自分に厳しくして、いっつも、めちゃ美しくしてる。誰に対しても嘘をつかへんし、必ず約束を守る。めちゃ勉強して、いろんなことを、よう知ってる。」

「………」

「あたしの着物姿のお披露目のとき、モクさんがヨシさんらに声をかけてくれたんでしょ?つぼみちゃんを雇うときにも、あたしと気が合いそうな人を探してくれたんでしょ?
モクさんはいっつもそうやって、気づかれへんようにお世話して、でも本人には黙ったままで、恩着せがましいことを絶対に言わへんもの。
そやから、みんなモクさんを応援して、ママがおらへんなっても、お店に通って来てくれはるんやわ。ほんま、モクさんは恩田木工のお話とよう似てる。」

「………」

…若葉には、俺がそんな風に見えているのか。
惣一郎も、イチョウ並木を見上げる。惣一郎の眼鏡の上に、初秋の柔らかい緑陰が慈雨のように滴り落ちてくる。

「モクさんは、いっぱい本を読んでるけど、小さいときから本が好きやったの?」

「…いや、社会に出てからや。子どもんときは全然勉強せえへんかったし、授業もまともに聞いてへんかった。そやから、最初は全然、漢字が読まれへんで、えらい難儀した。」

「ほんまに?それでも、頑張って読んでたの?なんでそんなに頑張れたの?」

「…母親の店を手伝うつもりやったからな。いろいろ知っとかなあかんと思うた。あの頃は、ほんまに、何も知らへんかった。ほぼ、ゼロスタートや。」

「こずえさんと一緒にお店をしたかった?」

「………」

惣一郎は、少し考え込んだ。

「…一緒に店をしたかったって言うよりは…認めて欲しかったんかな。母親の中で、ろくでもない親不孝者のまんまでいたくなかったんかもな。…いや、ちゃうな。やっぱ、一緒にいたかったんやろな。一緒にいたかったし、母親の喜ぶ顔が見たかった。」

「それで、お料理の修行も頑張ったんやね。」

「…そやな。最初はほんまに、何もできへんかったけどな。」

「そやったら、モクさんは努力して、自分を立派に育て上げたんやね。」

「…いや、周りがみんな、ええ人やったからや。俺は出会いに恵まれたんやと思うてる。」

「きっと、モクさんがめちゃ一所懸命に頑張ってたから、みんなも、モクさんを助けてあげよ、って思わはったんやわ。」

「…お前、今日はえらい、ええことばっかし言うて、俺を褒めてくれるな。」

「あら、いつも思うてることを言うてるのよ。」

若葉はいたずらっぽい眼で惣一郎を見上げている。若葉の死んだ弟は、目元が若葉とそっくりなのだ、という話を、惣一郎は思い出す。

若葉は、握った惣一郎の手を少し振り回すようにして笑う。惣一郎の手を握る若葉の、その反対側の手には、きっと若葉の弟の手がつながれている。

父親と、娘と、小さな弟。ずっと独りきりで生きてきたつもりだったのに、いつの間にか、三人家族になっている。

…いや、違う。期間限定の疑似家族だ。惣一郎はいつも、自分にそう言い聞かせている。


続く

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