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【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #27「若葉の異変」

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二月初めの雨の日。若葉がいつもより遅く出勤してきた。

「若葉ママ、顔が真っ青…大丈夫?」

つぼみがタオルを差し出しながら、心配そうに声をかける。

「うん、うん、ありがとう。大丈夫や。なんでもない。雨が冷たかっただけ。」

若葉は雨具を脱いでカウンターに入るが、惣一郎をまともに見ようとしない。

店の営業中は普段と変わらぬ笑顔で、客に愛敬を振りまいていたが、閉店後の帰りのタクシーの中では、終始無言のまま、表情をこわばらせて車窓の外を見つめている。若葉のただならぬ気配に、惣一郎は内心、気が気でないが、本人が言い出さない以上は、こちらからも聞くことができないでいる。

タクシーが若葉の自宅マンションの前に止まり、後部ドアが開いた。若葉は膝の上でストールを強く握りしめたまま、何かを逡巡しているかのように、動かないでいる。このときに、惣一郎は若葉に声をかけてやるべきだったのかもしれない。だが惣一郎は、やはり、何も言えなかった。

少し間を置いて、若葉は惣一郎を見ずに、小さく呟いた。

「ありがとう。おやすみなさい。」

そして、そのままタクシーを降りて、一度も振り返らずに、エントランスロビーの奥へと消えていった。


翌日はお華の稽古がない定休日で、二人で少し遠方まで古陶磁を観に行く予定だったが、朝早くに若葉から、今日はやめておく、とラインで連絡があった。

昨夜、若葉に声をかけてやらなかったことを、惣一郎はひそかに後悔している。
いつもの若葉なら、自分に困り事があれば、素直かつ率直に惣一郎に相談してくる。だが、昨夜の若葉はそうではなかった。
きっと、惣一郎には話せないようなこと、話したくないようなことが、若葉の身に起きている。そこへ不用意に立ち入って若葉を傷つけてしまうことに、惣一郎は怖気づいてしまったのだ。
 
若葉の様子がおかしいと気づいてすぐに、サチエさんに確認の連絡を入れた。サチエさんの話では、美容室での若葉の様子に、特に不審な点はなかったらしい。
ということは、サチエさんの店からうちの店に来るまでの短時間に、何かがあったということだ。誰か会いたくない人間にでも出くわしたのか。あるいは…。

そこまで考えたところで、入口のドアが開いた。惣一郎が顔を上げると、現れたのはママだった。ママと顔を合わせるのは数か月ぶりだ。

「モクさん、お久しぶり。相変わらず、定休日にも来てんのやな。どうもお疲れさん。」

ママは、華やかなファーで縁取られた真紅のダウンコートを着たまま、カウンターの奥へと向かった。

「若葉ちゃんの忘れ物を取りに来てん。お邪魔してごめんなさいね。」

…若葉の?どうして本人が取りに来ない。

惣一郎は怪訝な顔をする。それに気づいたかどうか、ママはカウンターを挟んで惣一郎の真向かいに立ち、少し見下ろしながら言った。

「あのな、若葉ちゃんと話をしてんけど、明日からしばらくの間、私がカウンターに立とうと思うの。随分と久しぶりやから、モクさんにはちょっと手間をかけるかも知れへんけど。どうぞよろしゅう頼むわね。」

「…若葉は?」

「若葉ちゃんは、しばらくの間、お休みや。」

「…休み?どうかしたんですか。」

「別に、どうもしてへんで。」

「…そんな訳ない。」

まるで惣一郎を試すかのようなママの態度に、惣一郎は苛立ってくる。

「…若葉の様子が、ゆうべからおかしい。」

「あら。モクさん、若葉ちゃんの変わった様子に気がついてたの。てっきり、あなたは気がついてないもんやと思うてたわ。
…ええ、そうや。私、若葉ちゃんから相談されてる。あなたが頼りにならへんから、若葉ちゃんは私に相談してきたんや。」

ママは惣一郎を冷ややかに見下ろしながら、言葉を続ける。

「若葉ちゃんは、モクさんには黙っといてほしいって言うてたけど、折角こうして会うたから、内緒で教えたげる。若葉ちゃんは、昔、関わりのあった男から、脅されてるの。誰にも見られたない写真を出しにされて。
かわいそうに若葉ちゃん、この店で働いてんのを特定されて、昨日、ビルの入口で待ち伏せされてたんやって。」

「…若葉が脅されてる?」

「詳しいことは私も聞いてへん。本人が話したがらへんもんを、私も無理に聞き出したりせえへん。」

「…俺には黙っとけって、若葉が言うたんですか。」
 
ママは、その問いには答えない。

「それでな、私、若葉ちゃんにアドバイスしてあげてん。スーさんに頼ったらどうや、って。こんな厄介な問題をうまいこと解決できるの、私のまわりではスーさんくらいしか、いてへんもの。」

「…親父さんに?」

惣一郎の顔色が変わる。

「スーさんかて、あの綺麗な若葉ちゃんに頼られたら、喜んで力を貸しはるわ。そやから、モクさんは、なんも心配せんでええ。」

「…親父さんに頼れって…。」

惣一郎は、思わずスツールから立ち上がる。

「親父さんに頼れって、それ、若葉に、親父さんの愛人になれ、って言うてんのと同じやないですか。」

「まあ、そうやな。スーさんはあの通り、若くて綺麗な女が大好きやから、若葉ちゃんを放っとかへんやろ。若葉ちゃんもスーさんに恩義を感じて、言うこと聞くんと違う?愛人になるんか、数回お相手するだけで済むんかは、スーさん次第やろうけど。」

「そんな     。」

ママに裏切られたように感じ、惣一郎の中に、強い怒りが突き上げてくる。

「若葉が、親父さんの相手を?俺の母親と、同じように?」

スーさんに弄ばれる若葉を生々しく想像し、惣一郎は眩暈がするほど逆上する。腹の底から凄まじい感情がほとばしり、その濁流に呑まれないよう、拳を握りしめて踏み堪える。
惣一郎の全身が興奮で震えている。興奮し過ぎてうまく息ができない。眼をきつく閉じ、懸命に息を整える。

その一部始終を、ママは平然とした顔で眺めている。惣一郎はママを睨みつけながら、声を震わせて言う。

「なんで、そないなことになるんですか。俺はそんなつもりで、若葉の面倒を見てきたんと違う。」

「そんなら、スーさんに頼る以外の方法を教えてちょうだい。言うとくけど、あなたには無理やで。あなたは、若葉ちゃんの問題を解決できる器やない。相手の男を無駄に刺激するだけや。」

「若葉は、親父さんのこと、なんて言うてるんですか。」

「ちょっと考えてみるって言うてたで。」

「ちょっと考えてみる…?」

惣一郎は、若葉の苦しい心情を想像して胸を八つ裂きにされ、涙声になる。

「なんで、そないなこと、若葉に考えさすんですか。なんで若葉に、親父さんの相手をせえって、そないな残酷なこと…。」

「……残酷やて?」

惣一郎の言葉が逆鱗に触れたのか、ママはまなじりを吊り上げ、別人のような口調で、容赦のない言葉を惣一郎に浴びせる。

「女ざかりの若葉ちゃんを引き留めたまま二年も男日照りを味わわしといて、おどれがしとることの方がよっぽど残酷なんちゃうんか。スーさんに可愛がって貰うたほうがまだ慰めになるわ。
ええか、女の一番ええ時期はな、過ぎたらもう二度と戻ってこうへんのや。それを、このダボが、ぐずぐずと無駄遣いし腐って。」

「俺はそんなつもりやったんと違う。」

「寝言ぬかすな、ボケ。おどれがさっさと若葉ちゃんに手ぇ付けとけば、若葉ちゃんもこない悩まんで済んだんや。」

「それは、今は関係ないやろ。」

「関係ある。まだ、わからへんか。頭を冷やして、よう考えや。」

ママは惣一郎を真正面から見据えている。

「とにかくモクさん、あんた、自分で若葉ちゃんを助けようなんて、身の程知らずなことは考えんとき。スーさんやったら、これくらいのこと、チョチョイのチョイで片付けてくれはる。」

「そんならママは、占いで言うてた若葉の運命の人は、親父さんやて言うんか。」

「そんなもん、知らへんわ。若葉ちゃんの運命の人が誰なんかを決めるんは、ウチやない、神さんや。スーさんを頼るかどうかを決めるんも、ウチやない、若葉ちゃん自身や。まあ、若葉ちゃんも今回ばかしは、大人の決断をするんと違うか。」

ママは突き放すようにそう言ってのけると、控室の奥に入った。そして、しばらくして出てきて、惣一郎に「ほな、モクさん、また明日ね」と言って、店から出て行った。


続く

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