#創作大賞2022 応募(#7/10)|何故、転職を17回も続けたのか?|廻り巡って結局のところ向き合う他にない。
学生時代に挑戦した引越屋さん。
実家に帰ってから3ヶ月程経った頃でした。
自分の体が訛っていることが無性に気になり始めました。
8年前にトレーニングジムで鍛えた「ビルダー」に迫る美しい筋肉の凹凸は滑らかに成り果てていました。
学生時代に5日間程通った「引っ越し」アルバイトの苦しかった光景が目に浮かんだのです。
ある意味で自暴自棄、自虐行為、自傷行為だったのかも知れません。
自分を追いつめてみたくなったのです。
未だまだ35才。既に35才。決して若くはなく体力や筋力は、精神状態の後ろ向きさを表すように、貧弱極まりなかった気がします。
新聞の折り込み広告に「引っ越しスタッフ募集中」を見つけました。
翌日からの出勤となりました。
5:30に事務所で面接の後、渡された作業着に着替えて、そのままトラックへ同乗することになりました。
3tトラックに4人のスタッフが座われる所に勝手にしがみついて座りました。
私はカーテンで仕切ることができる寝台代わりの空間へあぐらをかいて座りました。
「今日、初めてです。」「よろしくお願いします。」
ドライバ-は20才になったばかりの、見るからにやんちゃそうなシャキシャキのクソガキでした。それでも立派なチームリーダーの肩書を名乗っていました。
「幾つなん?」
「もう、おっさんやな。」
「まぁ。ええわ。」
「おらんより、ましやな。」
「無理せんでええから、言うことだけやってな。」
衝撃の挨拶の言葉となりました。
階段5階建ての恐怖。
現場は階段。5階市営住宅で、どうやって荷物を納めたのかと疑いたくなるほど、大型家具や大型の電化製品と、積み上がった大量のダンボールの荷物が目に入りました。
お客さんに挨拶を済まし、トラックの観音開きの扉を開いて固定し、段取りを終えました。
「3時間位で終わりたいな~。」
「今日は3件入ってるからな~。」
「荷物だけは、絶対に落としたらあかんで。ええな!」
4人全員が5階に集まり、ダンボールから順番に運び出しました。
上品な業者さんではダンボールは一つずつ丁寧に運ぶことになっています。
しかし、この元気な引っ越し業者は違いました。
SMLサイズの箱の大きさと重量にもよりますが、最低2箱。多ければ3箱を担ぎました。
ダンボルール箱に指を食い込ます。
スタート時点では、(ギターを弾く心配から)指先の保護にと厚手の手袋をしていましたが、ある時点で手袋を捨てて素手に切り替えました。
ダンボルールに指先を食い込ませるためです。
5階の階段は果てしなく遠い道のりでした。途中、腕力も握力も感覚が鈍ってゆくのが分かったのです。今にも荷物が滑り落ちそうでした。
そのやんちゃなリーダーが優しく微笑んで教えてくれました。
「指を食い込ませるんや。」「がっちりと。」「ほんなら、絶対に落ちひん。」
「あとは、根性次第やな。」
そう言って、私が担いでいた天辺の1箱を取り去って、自分の荷物となる箱の上に置いたのです。リーダーは4箱を覚悟のようでした。
馬鹿にされているのか、友情なのか、優しさなのか、複雑な込み上げる怒りを伴う嬉しさを感じました。
確かに、これが究極の限界の世界かと知ることができました。
見積り通り、3時間ほどで荷物の階段降ろしとトラックへの積み込みが終わりました。
昨夜、少し深爪の爪切りをしたこともあって、移動中の車中では、あまりの痛みと真っ赤な指先にショックを受けて、せっかくの昼飯もろくに口にできませんでした。
ただ、ひたすらに水分補給とニコチン補給に焦っているのが精一杯でした。
1時間ほど走って荷物の降ろし地へ到着です。
さっきと同じ形式の建物で、階段5階でした。
「今日は最高やな~。」
「やりがいあるわ。」
「おっさん。大丈夫か?」
「なぁ。みんな。」「多分。応援2台来るで。」「それまで頑張ってな。」
素晴らしいリーダーシップでした。
大物と呼ばれる大型の家具や家電からの階段登りとなります。
モッコと呼ばれる、エプロンの頑丈で大型版のような布製の補助具を二人が首から掛けて持ち上げるのです。
私は上側を任されました。後ろ向きで階段を登るのはもちろん初めてです。重量物を持ちながら登るのも初めてでした。
直ぐに脹脛に痙攣が襲いました。
「すみません。」「脚。つってます。」
「よっしゃ。」「静かに荷物を着地させるで。」
「せいの~。」
「はい。」
「どや。いけそうか?」
10秒ほど待って、再開しました。
若いリーダーも流石に汗が流れ落ち、顔が歪んでいました。歯を喰いしばっていたのが分かりました。
下りの時と同様に、持てるだけの箱を担いで、指を食い込ませて運び始めました。
どの位の階段往復の後だか分かりませんが、2台のトラックが敷地の駐車場に到着しました。
救世主の到着。
7人の勇士が駈けつけました。頼もしい救世主たちでした。
元のスタッフは、順に階段下の空きスペースで休憩をとらせてくれました。
あのオレンジジュースの味は忘れることができせん。
それでも若いリーダーは休むことなく、応援のスタッフへ激を飛ばしていました。
カラオケにて。
後々にスタッフ全員でカラオケに行く機会に恵まれました。
その時に彼が歌った曲は「尾崎豊の I LOVE YOU」でした。酷似。驚嘆で拍手も、ひやかすことも忘れる程でした。
I LOVE YOU - 尾崎豊(フル)
彼が洩らしてくれた話しは「2,000万円の戸建てを手に入れた。」ということでした。
自分の小いささと、恥ずかしさと、羨ましさと、尊敬の気持ちが溢れて、勝手に友情すら感じていました。
その瞬間に、一回り以上も離れた彼を、心から敬えるようになりました。
その後は、同等の勇士として、階段もバリバリ登れる対等な仲間となりました。
営業のススメ。
半年ほど経った時に、店長から「営業のススメ」を頂き、現場兼営業として約1年間、貢献した(お返しができた)と自画自賛できます。
1日の売上成績がトップの100万円を獲得することができるに至っていたのです。
しかし、現場での筋肉の酷使が祟って、指先の感覚を失う痺れに苦しむようになりました。
営業で見積書に文字も書けなくなり、携帯電話のボタンも押せないようになってしまったのです。
暫くの休養ということで、最初の1週間が過ぎた頃、東京から帰って来た時と同じ気持ちなっていることに気付きました。
また、振り出しに戻ったのかと思うと、情けなく、「死んでしまいたい。」「消えてしまいたい。」と責めまくる自分がいたのです。
気が付くと、出掛けていました。
車に2枚程の着替えだけを持ち込んで、そのまま旅に出ました。
学生時代の思い出の地、生駒山、六甲山、神戸港、淡路島、鳥取砂丘、天の橋立、名古屋、鈴鹿サーキット、和歌山、関西新空港、伊丹空港、福岡へと、只ただ走り続けました。
どこのパーキングで停めて眠ったのかも定かではありません。思い出を辿った先の気持ちを確認したかったのかも知れません。
学生時代の友人との交流も途絶えて、孤独でした。
これから先。という言葉は全く浮かぶことはありまでんでした。
その後、「自分と向き合い損ねた状態のまま。」転々と土地を移り、仕事を探しながら、自分を探していたのだと思います。
この15年間は、自分らしくもあり、偽りの自分でもあったのかも知れません。
多くの仲間を築いては、淡々と去って行く、冷酷な人間と化していたということができるのでしょう。
その瞬間、瞬間を最大限に燃やし尽くし、疲れては新しい場所を探し求めるという悪循環を止めることができませんでした。
多くの業種に触れました。
・住宅設備販売の飛び込み営業。
・冷凍冷蔵トラックの運転手。
・ゴム製品成型工場の作業員、後に工場長代理。
・リサイクルショップ店員。
・不要品回収業者。
・東日本大震災復興事業の除染作業員。
・プラント系現場監督。
・倉庫管理。
・大型トラックドライバー。
・土木作業員。
・下水道更生作業員。
・社員寮管理人。
・リサイクル工場作業員。
自分自身の鉱石を知らないまま、走り続けた凄まじい結果です。
何も手元には残らない消耗戦だったと、振り返りって言葉にする他にありません。
つづく
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
胸の内を全て書き出し終えるまで、向き合い直す他にありません。
「楽観の部屋」でしか、言葉にできないことに気付かされました。
書き出すことで生じる嬉し悲し複雑な苦悩の時が、暫くは続きそうです。
静かにお見守りを頂ければ幸いです。
_(._.)_
※ペコリ _(._.)_ は、誤字脱字(見直し)の確認の印です。
(発見された方は、是非ご指摘願います。真摯に受け止めます💝)
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※この記事の悩みどころ(表現や判断に迷った事などをメモしています。)
・「共感」を求めるための綴りではありません。ただ淡々と「飾らない言葉」で表現するつもりです。思考を曲げないために、妨げないために。ある意味でそう宣言します。自分のために。
※参考・引用など
<イメージ写真・動画など>
幾つもの峠を越えて|K-systemさん制作
https://www.photo-ac.com
この頃を振り返り、思い出として綴った記事です。
以上