社交術と引き換えに感情や情動や魂を見失った者たち

社会的評価を確認してからじゃないと応援できない人たち

のような生き方を続けていると、本来の好き嫌いと、社会的方便・社交ツールとして表明される好き嫌いの境目がどんどん分からなくなる。

「本当は好きだけど、物議をかもすから言わない」とか

「応援してるけど、アングラな人なので言わない」とか

「面食いだと思われないように無難な人を好きなタイプという」とか

「あの人は社内で立場があるから苦手だけど仲がいいフリをする」とか

「根暗な趣味だからばれないようにする」とか

言わないだけならまだいいが、それを続けてるとほとんどの人は、趣味とか行動それ自体しなくなっていく。そのほうが「生きやすい」からだ。

話が合わせやすい。嘘をつく手間が省ける。イケてる人間に見られる。社会に適合できるーーー

そうしていつの間にか、社交ツール的な好き嫌いが台頭して、本来の好き嫌いが、置き換えられていく。

このとき、精神の奥底から書き換えられているならそれでいいのだが、ほとんどの場合は、抑圧してなかったことにしているだけだ。

好きだと周囲に表明して実際に行動し、その気になってはいるが、実際は元の自然体だった頃の好き嫌いが本来のままなのである。

それがある程度進行すると、好きなものが分からないとか、軽度の障害があらわれたりする。

高確率で無趣味人間になり、それか人に言いやすい趣味という名のラベルばかり集め、心の充実はどこへやら。

好きな音楽聞かれたら radwimpsって言っておこ~

を繰りかえしているうちは、本当に好きな、自分の情動を満たす音楽にも巡り合うことができないだろう。(※radwimps及び本当に好きな方ごめんね)

好きなyoutuber聞かれたら、ヒカキンか気まぐれクックって言っておこっと。((一回か2回しか見てないけど)) 

と考えているうちは、本当に心惹かれるマニアックなyoutuberと出会うことも、それを共通の話題にできる人と出会うチャンスも減るだろう。(※お2人方も例で使ってごめん。でもそういう側面も意識して客増やしてるよね)


特に有名になればなるほど、オフィシャルになればなるほど、影響力が増すほど、

好きという発言一つでも「共感されるかな?無難なところをいっておこうかな?生々しすぎないかな?その人社会一般で嫌われてないかな?私の知られたくない趣向が透けないかな?」といった不純な基準から発言をするようになる。

このような人達ならそう答えざるを得ない場面も多かろうが、(それでも手本を見せてもらいたいものだ)一般でもそういうふるまいをしてる人のなんと多いことか。

そういうことをお互いにやってばっかいるからこんな息苦しい社会なんでしょ?

そこには、そう答えないと生きにくい社会全体の仕組みがあるので(⇒社会的評価を確認してからじゃないと応援できない人たち)そこも含めて何とかしてく必要があるだろうね。




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