両極を持ちながらエネルギーを持って進むこと。その幅を広げること

自分の中に両極を持って、人生を進めることはとても難しい。

逆側によって進むエネルギーが減るからだ。


両極を分かりやすい例でいえば

空気を読んだり調和を保つことを大事にしながら、一人の人間としての自分の都合も表明できるか?

常識やマナーを尊重しつつ、もっと大事なもののため、必要に応じてそれを打破できるか?

人の死・老化・終末を正面から見つめながら、企業家としていられるか?

痛み・恐怖を直視して優しさを持ちながら、格闘家としていられるか?


世に出て「成功」している者の多くは逆側を見ないようにして勢いを確保している。

彼らの口からは、「進むための考え方」と「成功を維持するための考え方」が山ほど勢いよく出てくる。

ただ、人間が誰しも抱えている、老い、死、敗北、世代交代、そういったものへの哲学を問えば、的を射ないことがほとんどだ。

そこからは誤魔化しの雰囲気を感じ取れる。


一方で、落後者のような人々は、その逆である。

老い、死、敗北、世代交代、そういったものへの哲学を問えば、とめどなく彼らの「諸行無常」的な話を聞くことができるだろう。

ただし、人間の欲、成功したい、評価されたい、もてたい、金を稼ぎたい、生を謳歌したい、、といった話になった途端、彼らの顔色は曇り、たちまち煙に巻かれることだろう。


このように、人間は自分が生きるために、日々のエネルギーを確保するために、各々の哲学を作り上げ、反対側をうまく見ないようにする。

自分の中の両極をどう扱っていいか分からない。

反対側を意識すると、矛盾を感じて動き出すエネルギーが消えてしまう。

このままでは何かまずいと思いながらも迷宮への対処法を見いだせずにいる。


まず先に最も厳しく絶望的な回答から示そう。

極の反対側を見たら消えてしまうようなエネルギーは元々大したものではない。

死や老いやその他の無常さを知った上で行う事業でなければ、質として「非常に甘い」のである。何億稼ごうが、有名になろうが「お金稼ぎごっこ」の域を出ることはできない。

多くの人が起業などの挑戦をしないのは、実はとても素直な反応である。

自分を強引に奮い立たせて進むそのアタマでこしらえた方法論に、どこかに嘘臭さと無理を感じているのだ。

それがうまくいくこともあるのは、今までの時代にそこまでして成功したい人と能力を持った人がそれほど少なかったから、勝てていただけである。


両極から逃げずにいたとき、エネルギーが消えたように感じるなら、それはその時は無理に進むべきではなく、あなたにはそれだけの本質のエネルギーがないことを示している。

その時にすべきはどこまでも内面を掘り下げることだ。思い切って逆の極にいる人たちの中に飛び込むのもいい。そこで新たに多くのことを知り、それに伴って、またその人たちの限界と嘘を見つけることができるだろう。

両極の虚と実を、自分自身で見極めることによって、どちらかに振れて反対側を見ないこと自体が逃げであることを知る。

そしてどちら極にも本質と誤魔化しの要素があり、それらは絶妙に入り混じっていて、どの本を読もうが、他人の話を聞こうが、そこにもその人の虚と実が大量に無自覚に含まれており、

結局のところ、自分自身で確かめる以外にそれらの虚実を分離解体して己のものとすることはできないことを確信する。

両極の旅を終えてそこから見つけたものが自分の血肉となったとき、かつてエネルギーを中和させるはずだった忌まわしい両極は、協力しあって純度の高いエネルギーを生み出すということを知るのだ。

そこからあなたにとっても周りにとっても社会にとっても、すごく嬉しい新しいものが生まれる。

そしてそのサイクルは一度完了すれば終わりではなく、何度も訪れる。次元の段階があり、進んだ先にはまた新たな両極の相克が待っている。そこでまた新たな旅をして見つけることの繰り返しだ。

とても遠回りに見えるだろうが、それがまっとうかつ最短の道であることを私が保証しよう。



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