試験

 気づけば席についていた。心地よい教室だった。心地よさのため、席を立つという発想すらなかった。時に不愉快な気分になることもあるものの、いつも何かに夢中になっていて、目の前の紙切れ一枚の存在には気づくこともできなかった。紙の上段には一行の明朝体が印字されていた。

問 あなたはなぜこの試験を受けているのか。

 その問題用紙が初めて視界に入ったのは、だんだんと座っているのが退屈になってきて、痺れた尻と軋む腰をいたわるように身を前に屈めたときだった。たちまち姿を表すA4の白色。僕は思い出す、自分は今試験を受けているのだ。そうだ。これは試験なのだった。なぜ今まで忘れていたのだろう。ふつふつと沸き始める焦り。あれ、そういえばこの試験は何時までなんだっけ。あたりを見渡すも時計はない。終了時刻は知らされていないようだ。でもいつか試験は終わる。一秒後か一年後か数十年後か、いつかその日には教室から退出しなくてはならないことを僕は知っている。

 そして僕は、この試験に解答する必要がないことも知っている。この教室において、ほとんどの人間は目の前の紙切れに気づいていない。皆何かに夢中なのだ。派手な服装をした青少年らは、酒を浴びながらセックスに励んでいる。そこかしこで徒党を組んでいる主婦たちは、スマホのゴシップ報道を数人で囲いながら肘で紙をくしゃくしゃにしている。数秒に一回は痩せ細った黒人の子供が白紙答案のまま席を立ち、ふらりと教室から姿を消していく。その去りゆく子供の背を目で追うと、教室が縦横無尽に開けていることに気づいた。何十億人もの受験生。しかし実際にシャーペンを握っているのはだいたいが若めの白人だ。日本人や中国人も多いが、年齢層はあまり変わらない。幼い子供はかつての僕のようにゆったりと背もたれに身を任せ視線を宙に遊ばせているし、歳をとっても生真面目に試験を解いているのはほんの一握りの気難しい人文家だけである。なぜなら多くの真面目屋はすでに提出してしまったから。あるいは保健室へと途中退室してしまった。

 いつまでたっても試験を解いていたり試験の存在に気づかなかったりする大人たちを横目に、ほかの大人たちは静かに目を閉じて老獪さを醸し出している。まるで答えないことが答えだとでも言うかのように。試験の存在には気づいているけどね、と。
 僕は彼らに目配せを求める。やはりこれは試験なんですよね?
 反応はない。
 カンニングではないですよ。もちろん答えは自分で考えます。答えないのが答え、もちろんそれも良いでしょう、文句はありません。
 彼らはうつむいたままだ。
 じゃあわかりました。これだけ確認させてください。別に試験の存在に気づいたからって偉いというわけではないんでしょう?ねえ、聞いてます。
 知らんぷり。
 気づいても気づかなくても点数は同じなんでしょう?結局提出しても誰も採点してくれないんでしょう?気づいている人の中にいると気づいていないことがなんとなく恥ずかしい気がするだけで、むしろ気づかないことのほうが幸せなんでしょう?ほら、向こうでドンチャン踊っているブルキナファソ人、僕たちよりずっと楽しそうですよ。
 僕は虚空へと熱烈なまばたきを繰り返す。
 そのくせあなたたちは、試験に気づいたことにはこっそりと悦に入りつつ、試験から逃げた罪悪感は老若をダシにして誤魔化しているんでしょう?卑怯ではないですか?それでワリを食うのは、かつてのあなたたちではなくて今ここにいる僕たちなのですが。真面目に試験を解くことはそんなに青臭いことですか?サボタージュは本当に格好いいですか?真実から目を背けるのが大人になることだ、と大人であるあなたたちが言うだなんて、その論理は自家撞着を孕んでやいませんか?アンフェアじゃあないですか?ねえ。そこのところ、どうなんです。
 大人たちは依然として目をぎゅっと瞑ったまま、少しだけ顔をしかめた。

 僕はこのことも知っている。つまり彼らが今夢を見ているのは、試験のことを考えだすと再び焦りが止まらなくなってしまうからだということも。この試験はまったくもって解く必要はないが、ひとたびその存在に気づくと、夢に逃げぬ限りは解かずにいられなくなってしまうのだ。なぜならこの試験を解くことは、この試験を受けている理由そのものを知ることだから。椅子と机の窮屈さに気づいた時、僕らは否応なく一枚の紙の存在に気づくが、その問いに答えなくては自覚された窮屈さが理由なき理不尽と化してしまうから。

 だから僕は解かなくてはならない。アイコンタクトを諦め、視線を机に戻す。大きくため息をつく。シャーペンを握る。実は僕はこの問いの答えも知っている。単純なことなのだ、「理由なぞありません」。でもそれだけだと味気ないから、理由があるかのように錯覚した理由も添えてやるのが良いだろう。√2が無理数であることを示すように、一つずつ丁寧に論理を追ってニヒリズムを証明していく。幸いにも時間は潤沢にある(かのように錯覚されている)から、一行書き記すたびに、老獪ぶってゆっくりと目を瞑る。できればもう夢から覚めずにすみますように。静謐な逃避行は、いつだって失敗に終わる。僕はふたたび、ため息混じりに机へと向かう。繰り返す。繰り返す。気づけば答案はとっくに埋まりきっていて、そろそろ一年が経とうとしている。いつ試験が終わるのか、それだけがわからない。

* * *

 提出したら二度と受験できない。ケアレスミスなんて許されない。僕は今、この証明が間違っていないか、念入りに見直しをしている最中である。

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