【短編】下り列車

下り列車

 階段を上がると、ちょうど車両のドアが開くところだった。10分発の急行だった。白に黒にくすんだ淡色、雑然とした色相がいっしょくたになって車内に吸い込まれていく。やがて車内は満員になった。待機列には女子大生一人だけ残っていた。足の疲れに染みる香水。今日はさすがに歩きすぎた。
 左手首に目をやる。モンディーンの針は22時8分を指していた。箱詰めの雑踏に顔をしかめつつ、さてどうしたものかと電光掲示板を確認する。次の電車は20分後のようだ。今車両に乗り込めば30分ほどで最寄りに着くが、その間は立ち続けなくてはならない。どういうわけかこの下り列車では、僕の最寄りで降車する客がほとんどで、急行に滑り込んで途中から席に座れた試しがないのだった。かといって20分立って待つのも億劫だった。それに準急だと最寄りまで50分かかる。早く座りたいが、それと同じくらい早く帰って寝たい。結局急行と準急とを計った天秤は、秒針と足裏の浮遊感にせき立てられ、オードパルファム何滴かの僅差で準急の側に傾いたのだった。おもむろに発車メロディが鳴り響く。甘い香りは、発車の風圧に溶けて消えて、列車が去ってまた滲んだ。
 準急が来た頃には、下半身の倦怠感はピークに達していた。列の先頭でYouTubeを見ながら何度かぐっと足を伸ばしたが、気休め程度にしかならなかった。しかしこの痛みもこれで終わりだ。車両のドアが開いた。香水の女子大生が左手前の端の席に座ったので、僕は左手奥側の端の席に座った。足の疲れがじわっと溶け出た。間もなく席は埋まり、残された人々がぱらぱらと吊り革に掴まり始める。僕の目の前にもすぐ人が来た。
 うわ、と思った。その後すぐに、ああ、と思い直して、右一列を見渡すと、眠る気満々の老人、談笑する男子大学生、男子大学生、女子大学生、ヘッドフォンをつけたスマホを横持ちする壮年のサラリーマン、やはりスマホを眺める壮年のサラリーマン、の並びだったので、事態の面倒さに思い至った。目の前に来た大太りの女性は、そのトートバッグにマタニティマークをつけていた。
 女性はどこか不機嫌だった。僕は妊娠した人を身近に持ったことがなかったので、妊婦の機嫌の相場がわからなかった。座れなかったから苛ついているのか、それともしかめ面は元からなのか? いや、そんなのは人によるに決まっている。わからないしどうでもいい。今大切なのは僕の足と彼女のお腹、どちらが席に相応しいかだ。僕以外誰も彼女の存在に気づいてすらいないのだから。しかし今度は衡量するまでもなかった。きっと妊娠する前から太っていたであろう彼女の体重は、天秤で計るにはあまりに重たすぎるのだった。隣の老人を起こさないように静かに「どうぞ」と席を譲る。妊婦はきょとんとして、会釈して座った。目すら合わなかった。僕はあまりの苛立ちに失神しそうになった。一青年の不覚なぞどこ吹く風、準急はゆっくりと発車した。
 車両に揺られながら目の前の妊婦を見る。気怠そうに眺めているのはインスタだった。ストーリーが背後の車窓に映っていた。もはやついさっき席を譲られたことを忘れつつあるかのようだ。しかしきっと僕も大差ないのだった。席を譲ったことも今のこの苛立ちも、帰ってすぐに寝て、また明日から日常に戻り、何度も何度も電車に乗っては降りてを繰り返すうちに、そう遠くはないうちに忘れ去り、いつかはなかったことになってしまうのだろう。僕はため息をついた。こうして世界は回っているのだ。たびたび軋む社会の歯車にぬるりと滑り込み、何事もなかったかのように世界を回す透明な潤滑油。それは誰からも忘れられた些細な善意に違いない。
 と、ぐちぐち思索している間に、最初の駅に到着した。降りる乗客は一人だけのようだった。目の前の妊婦だった。「ありがとうございました」、目も合わせずに小さな声で呟いた彼女は、そっと人混みをかきわけながら降りていくのだった。一瞬戸惑って、黙って会釈して、僕は目の前の空席にゆっくりと座った。再びじわりと溶け出る疲れ。は、苛立ちとともに、眠気の中に混じって消えた。

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