ジェンダー平等って何だろう?

ジェンダー平等という言葉は一般的になってきて、
男女だけではなくてLGBTQも含めた概念になってますが、
そもそも「ジェンダー平等」って何?という定義が、
使う人によって違うのではないかと感じるようになってきました。

ジェンダー平等とともに使われる言葉は
「女性の社会進出」とか「女性の活躍」とか・・・
結局は世界経済フォーラムが発表している
GGGI(グローバルジェンダーギャップ指数)に依拠しているのか?

私は新入社員教育をするときに、マナー研修を担当すると、
「社会人っていう言葉は嫌いです」
「女性の社会進出なんて言葉はもっと嫌い」
といいます。

新入社員達は驚きますね。
マナー研修=社会人としての心得
ですから。

(本題から外れた余談ですが)

歎異抄の影響かな?こういう言葉を使うのが好きです。
歎異抄には、常識の逆のような言葉が並びます。
そして、その後に「そのゆえは」と、解説しています。
「私には弟子は一人もいない」といい、
「念仏は自分が勧めたものではなくて、仏から与えられたものだから」と。
つまりは「みんな阿弥陀仏の弟子であって、自分の弟子ではない」
新入社員教育の受講生も「自分で集めた」のではないので、
「私の生徒」ではありません。

(閑話休題)

少し話がそれましたが「女性の社会進出なんて言葉は嫌い」というと、
驚かれ、特に女性社員からは睨まれることもありますね(笑)
でも、その後で理由を言います。
「学生は社会人ではないのか?学生は社会と隔離された存在か?」
「専業主婦は社会に進出してないのか?活躍してないのか?」
これで納得してくれます。
GGGI基準でジェンダー格差を語ろうとすると、矛盾を来します。
GGGI基準の価値観は
「稼ぐヤツが偉い」「決定権のある奴が偉い」
というものです。
事務職の人間は「就業率」には含まれますが、
「専門職・技術職・管理職の割合」には含まれません。

これはなんてことはない「家父長制的価値観」の延長線上にあって、
「誰のお陰で飯が食えるんだ」的発想から抜け出していないのです。
ジェンダー格差を語るのに「家父長制的価値観」でいいのか?
私には大いに疑問です。

あと、ジェンダー平等を語る人から
「女性は可哀想な被害者」という趣旨の発言がよく出て来ます。
それって「女性の自己決定権」を無視してませんか?
65年前の「売春防止法」から変わっていません。
売春防止法では売春婦は「保護」の対象で、「逮捕」されません。
「女性は可哀想な被害者」なので、「保護」する必要があるという思想。
2001年に制定された通称「DV防止法」の前文にも
「暴力の被害者の多くは女性」と書いてあります。
本文は男女関係なく被害者の相談機関を設置するよう求めていますが、
その相談機関の名称も「婦人相談所」だったりします。
そこには「男性は暴力の加害者」「女性は可哀想な被害者」観があります。
そのような考え方は男性差別であって、ジェンダー平等ではありません。
DV防止法の定義によると精神的暴力(暴言、無視、監視)も含まれ、
これは男性が被害者であることも少なくないのです。
少し前の調査で
彼女の携帯を盗み見たことがある男性=23.3%
彼氏の携帯を盗み見たことがある女性=44.7%
というのがありました。
女性の半分近くが精神的DV(監視)の加害者だということを表しています。

話を進めると、「男性は暴力の加害者」という発想は、
警察という国家権力による判断に影響を与えます。
《女児が迷子になっていて、声を掛けて一緒に歩いていた》
こういう事例で、声を掛けたのが男性だと逮捕され、
女性だと「事件性はない」と判断されます。
これこそジェンダーギャップではないでしょうか。

私は「ジェンダー平等」の定義を
「一人一人の人権が、その性的属性によらずに守られる」
ことだと思っています。


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