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キリスト者はこの世界では旅人。しかも存在するだけで攻撃される🐰

イエスを信じると黙っていても攻撃されます🐰💦

りこうさぎも幼少期からイエスを信じてから、文字通り「存在するだけで迫害される人生」を歩んできました。黙って存在するだけで暴力を受ける、嘲笑される、何かに向けて努力するとそのこと自体を否定される、母国にいれば「本当は日本人じゃないだろ」などとバカにされ、外国に行けば日本人であるが故に人種差別を受ける、などと列挙するだけでウンザリするくらい攻撃を受けます。

面識関係なく、ホントにありとあらゆる人間に攻撃されます。りこうさぎは常軌を逸した身なりをしているわけではなく、平々凡々とした身なりをしています。外に出るときは必ず体を洗い、洗濯済みの服を身につけています。ホントに普通の人です。それなのに理由もなく、他人に説明しても「なぜりこうさぎが攻撃されるのかわからない」状況下でも常に攻撃されます。もはや笑えるくらいです。苦笑

そんな人生は不幸極まりないように見えるかもしれませんが、実は自分自身が「この世の者ではなく神に選ばれた存在」という実感が益々強まるので、案外そうでもありません。というか、キリスト者はこの世での成功を特段に求めるわけではないし、いくら攻撃にあっても最終的に守られ、なんだかんだいって祈りが聞かれるからです。

なぜキリスト者は攻撃されるの?

キリスト者はこの世の者ではないため、「お前らこの世界から出てけ!!」と言われんばかりに攻撃されます。世界中で移民問題や人種差別がなくならないことを見ると、この世界での余所者であるキリスト者が攻撃されることがよりわかりやすくなるでしょう。イエスの言葉がこちら。

“わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。”
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭17:14‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/jhn.17.14.口語訳

じゃあ攻撃されるキリスト者は不幸な存在なのか?というとそんなことはなく、むしろ幸いな存在です。

“義のために迫害されてきた人たちは、 さいわいである、 天国は彼らのものである。 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。”
‭‭マタイによる福音書‬ ‭5:10-12‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/mat.5.10-12.口語訳

一つ注意しないといけないのは、「見ている先がこの地上の世界だとイエスの言葉を理解することができない」ということです。
この世界を造ったのはイエスの父である神ですが、この世界を今支配しているのは悪魔です。だからこそ戦争、疫病、天災がこの世界に存在します。
悪魔が支配する地上での生活は、せいぜい長くても120年程度。(創世記6章3節)永遠に比べたら地上での120年は圧倒的に短く、いつか必ず終わりがくるものです。聖書の言葉によればキリスト者にとってこの世界そのものが旅先です。

“愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。”
‭‭ペテロの第一の手紙‬ ‭2:11‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/1pe.2.11.口語訳

攻撃のみならず全てを受け入れることがキリスト者の生き方!

「やられたら絶対やり返す!」と言いたいところですが、イエス自身が悪人に手向かうことを禁じています。

“『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。 求める者には与え、借りようとする者を断るな。”
‭‭マタイによる福音書‬ ‭5:38-42‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/mat.5.38-42.口語訳

イエスが伝えたいことは、「されるがままになる」ということとりこうさぎは理解しています。

理不尽な暴力を受けても耐える。
謂れのない攻撃を受け止める。
大いなる犠牲を伴う宿命そのものを受け入れる。

このような生き方をイエスは生きました。
愛していた人たちに裏切られ、売られ、正当な理由もなく罵られ、ただ一方的に傷みを受け続け、誰も助けてくれない状況で壮絶な死を遂げました。
イエスは神の子であり救い主です。
そのような人間を超越した存在が人間の姿になり、文字通り攻撃されるがままの姿になってくれました。そして死で終わらず、蘇るという形で勝利しました。その象徴が十字架です。

キリスト者として生きるということは、死にすら打ち勝つ救い主であるイエスの生き方にならう、ということだと思います。

今目の前にあるものや攻撃に嫌気がさしたとしても、イエスと一緒に全てを受け入れることがキリスト者の生き方だと思います。そのような生き方は決して災いでもなく不幸でもなく、平安な生き方です。なぜなら神の計画は平安の計画であり、実現するのは人の計画ではなく神の計画だからです。

最後まで読んでくださりありがとうございます。

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