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分断の時代に考える-ヨーロッパ-

15世紀に出版された

「魔女への鉄槌」は、

特に、精神障がい者への異端審問に、合理的・法的な効力を与えた。

ヨーロッパにおける精神病の治療は、

ローマ帝国の滅亡(5世紀)からフィリップ・ピネルの登場(18世紀末)まで、暗黒時代に入るといっても過言ではない。

精神障がい者の人間性を認め、体内の科学的不均衡に原因を求めようとしたギリシャの生物学理論に拠って診断しようとする医師は、

非化学的に悪魔憑きを診断する教会の医師にとってかわられ、

医学に則った治療は、

悪魔払いや異端審問や拷問や火刑にとってかわられた。

もちろん例外は在った

(当時の宗教団体が、親切な手を差し伸べたり、病院を建てたりしたようだ)が、

総じて精神障がい者の治療は、ホロコーストに等しかった。

前回描いた、アラブ人の敬意と思いやりに満ちた精神障がい者への接し方と大変な違いである。

西洋世界は相違と邪悪を同一視し、ただ根拠のない悪魔という名の伝染を怖れた。

奇妙にみえる行動と悪魔をつなぎ合わせて考え、

共同体全体の福利(≒永遠の救済)の妨げになると考えてすらいた。

ただ、ヨーロッパの暗愚な治療にも、重要な例外が在ったことは確かである。

13世紀には、修道院に、また聖地や巡礼地への中継点に、キリスト教の慈善病院が数多く建立された。

修道士/修道女が、心身の病人やハンセン病患者や孤児や貧者に、

部屋や食事を与え、祈り、思いやりのある理解を示した。

科学的診察や臨床的診断は無かったし、

そこにいる彼ら/彼女らの目的は、

キリスト教精神を持ってただ世話をすることであり、診断や治療ではなかった

が、これらは火刑台からのきわめて大きな一歩であった。

さらに、自然主義的、生物学的見方も、完全に抑え込まれていたわけではなく、それは、

西洋の侵略者が、イスラム世界のはるかに進んだ医学文明に接した十字軍の時代に、大々的な復活を遂げた。

かつてギリシャ語からアラビア語に訳されたガレノス(130~200年)の論文が、今度は、アラビア語からラテン語に翻訳されたり、

学問の中心が修道院から都市の大学へと移行し始め、各大学は医学部を設立した。

(これら医学部がどのような路をたどったのかはまた、別の回に譲るとして、)

迷信の時代も、良識と人道にかなった態度が跡形もなく消えたわけでもなければ、

問題が、おしなべて悪魔のせいにされ、患者たちがおしなべて拷問を受けたわけではなかったことにも、

私たちは、留意すべきであろう。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。

分断の時代について考える②でした。

前回、サブタイトル?を

分断の背景について考える、にしようか悩みましたが、眼の前で(テレビの画面越しであっても)、今、この時代に存在する分断について考えたくて、分断の時代について考えるシリーズにしました。

いくつまで続けるシリーズか未定ですが、読んでいただけると嬉しいです。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

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