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フロイトの功罪

先日、恩師から、こんな忠告をいただいた。

「(古典など文学作品は、)時代が変わっても通用します。(あなたが好き、だけど描くことに対して悩んでいる)ミシェル・フーコーなども文学作品を論じながら、理論展開しています。時事ネタから入っても、文学作品で本質論を展開すべきです。」(→メールからの一部抜粋。前後関係を補助するための括弧以外、メールの原文のまま)

というものである。

……いろいろ考えた、そして、明日から数日間、不定期更新になる、ということで?今回は

ジークムント・フロイト(以下、フロイト1856~1939)について

描いてみようと思った。

フロイトは、

夢、芸術作品、神話、

そして精神史病患者の精神症状や神経症状などの根底に

共通して在るものを、好んで探し求めた。

彼は、症状の意味を明らかにするために夢を用い、

神話の意味を明らかにするために症状を用い、

ハムレットやオイディプスを解釈するために患者の空想を用いたのである。

つまり、フロイトは、文学や神話は患者について説明する際に用いることができ、患者の病気もまた文学や神話を説明する際に用いることができることを示した。

さらに、フロイトは、

生まれつきの無意識の本能が、

日々の行動を決定してしまうほどの、

大きな役割を演じていることを認識していた。

精神の作用についてのフロイトの考察は、現代にも大きな影響を与えた。

しかし、フロイトの精神分析のモデルには、「正常」のための場所はないに等しい。(→何回か描いているように、「正常」は正確には定義できず、あいまいなものであるが、「正常」とよばれるものの意味で、以下、「正常」と用いる)

フロイトは、私たちが皆、同じ船に乗っているという言い方を強調した。

フロイトは、ある意味で正常な人間の存在を否定し、

だれもが神経症で、自己洞察をもっと活用できるという乱暴なAll or nothing的な議論をした。

これらのことは、フロイトが、生前は過大評価され、

現在では過小評価される

という代償を支払っている原因のひとつだと、私は考える。

フロイトから見れば、

芸術家と精神病患者に大差は無く、

夢を見る夜になれば、

人それぞれの違いはおしなべて夜の闇に溶けて消えていた、

のであろう。


フロイトは、あまりにも、

「正常」のために場所を作らず、

夢や神話や文学の彼岸と此岸を分けすぎているように私には思える。

どちらかに偏るだけではなく、

彼岸と此岸を渡す小舟を浮かべて、

双方を行き来することがあっても良いのではないかと、フロイトに問うてみたいと、思う朝である。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。

明日から、数日間不定期更新となりますが、また、よろしくお願い致します。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

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