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【小説】狼の森——オウム事件秘話

1995年、オウム真理教による皇室テロの噂が囁かれる中、ある右翼団体で内部抗争が勃発した。右翼活動家の悲壮な決意を描いた憂国のハードボイルド小説。

 1

 地下の劇場から長い階段を上って地上に出ると雨が降っていた。傘立ての前に並ぶ人や、バッグから折りたたみ傘を取り出そうと立ち止まる人で出口は混み合っていた。外を見ると表の通りにも人がたくさんいて、隙あらば中に入ろうとしている。次の回の上映時間が迫っているのだ。
「出る人のために道を開けてください」
 混雑に気づいたスタッフが交通整理を始めた。やがて裏口も開放された。俺は裏口から外に出た。
 映画館は宮益坂と金王坂が交わる宮益坂上の交差点のさらに上、青山通りから少し入ったところにあった。
 青山通りに出て左に折れ、渋谷駅に向って金王坂を下った。宮益坂と比べると、こっちの坂は殺風景だ。小腹が空いていたが、これといった店もない。
 首都高速を走る車の音が聞こえるところまで来たときだった。
「伊吹さーん」
 後ろで俺を呼ぶ声がした。振り向くと、漫画家のようなベレー帽を被った初老の男が、「呼んだのは私です」と言わんばかりに傘を上下に動かしながら、こっちに向かって歩いてくる。男の顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。懐かしい友人に会ったときに男が見せる顔だ。
 男は傘と傘があたる距離まで来た。男の顔には見覚えがあった。
「網野さん?」
「そうです。いやー、久しぶり。やっぱり伊吹さんでしたか」
 網野と最後に会ったのは1995年の5月だ。あのとき俺は30歳だった。あれから四半世紀が過ぎている。この渋谷の街中で、よく俺だとわかったものだ。
「すっかり、おっさんになっているんで自信がなかったんですけどね。伊吹さんは歩き方に特徴がありますから」
 俺の知っている網野は警視庁公安部の刑事だった。公安は俺の歩き方まで把握していたのだ。
「網野さん、お元気そうで何よりです。しかし、どうしたんですか。芸術家みたいな帽子を被って」
「あー、これですか。実は、警察を退官してから絵を描いているんです。似合いませんかね」
「いや、似合います。こう言っちゃあなんですけど、いい人に見えますよ」
「ははは。昔は悪人の顔をしていましたか。そりゃ、極左の方からみれば、公安なんて悪の塊ですね」
 網野は「極左」と言った。俺が左翼の運動に関わっていたのは20代のときの話だ。今はもうなんの関係もない。かつて所属していた組織もずいぶん前に解散している。が、こういうレッテルは永遠に消えないのだろう。
「伊吹さんは変わりませんね。雰囲気は昔のままだ。でも、だいぶ太くなりましたね」
「公安の目を欺くために、わざと太ったんですよ」
「ははは」
 網野はずいぶん変わった。まるで別人だ。目尻を下げて嬉しそうに笑う網野を見て、俺はそう思った。あの頃の網野は働き盛りの40代で、紺のスーツを着こなし、髪はポマードで固めていた。が、今の網野は淡いベージュのジャンパーを羽織り、柔らかなベレー帽を被っている。
 表情も変わった。あの頃、警察官はみな、海の底に沈んでいく難破船の乗員のような顔をしていた。地下鉄にサリンが撒かれ、警察庁長官が狙撃された後だったので、明るい顔などできなかったのだろうが、網野は特に暗かった。が、今は違う。血色もいい。声にも張りがある。もともと網野は警察官としては物腰の柔らかいほうだったが、それでも態度や話し方には威圧感のようなものがあった。しかし、今の網野は態度も話し方も柔らかい。
「実はもっと早く、映画館で声をかけようと思ったんですよ。伊吹さんのすぐ近くの席にいたので。でも、元公安と一緒にいるところを誰かに見られたら伊吹さんもまずいだろうと思いましてね。それで、映画館を出てからも少し距離を置いて、後ろを歩いていたんです。しかし、伊吹さんの足が速いのか、私の足が衰えたのか、あやうく巻かれるところでした」
「もう運動とは関わってないんで、誰に見られてもまずいことはないですよ。それはそうと、網野さんもあの映画をみていたんですか」
 この日、俺がみたのは、東アジア反日武装戦線の足跡を追ったドキュメント映画だった。監督は俺と同じ歳の韓国人女性。マイナーな映画だが、俺の友人、知人の間では話題になっていた。
 東アジア反日武装戦線は1974年から75年にかけて連続企業爆破事件を起こしたアナキストのグループである。若い頃、左翼運動に関わっていた俺のような人間がこの映画をみるのは不思議ではない。俺の昔の仲間もみているはずだ。が、網野は警察の人間だ。網野にとって東アジア反日武装戦線は敵の中の敵だ。
 が、今の網野には敵も味方もないのだろう。網野はハンカチで目頭をおさえながら、映画の感想をこう語った。
「この映画のことは新聞で知りました。現役を引退した身ですけど、やっぱり気になるんですよ。いい映画でした。見てよかった。彼ら、彼女らも歳をとった」
 涙をぬぐう姿を見られて照れ臭くなったのか、網野は通りに向かって、「おーい」と大きく手を振り、タクシーを停めた。
「伊吹さん、お時間は大丈夫ですよね。立ち話も何ですから、どこかで一杯やりましょう」
 どうしたものか。俺は躊躇した。退官したとはいえ、網野があちら側の人間であることに変わりはない。一緒に飲んで楽しい相手ではないだろう。しかし、ついさっき、まずいことはないといったばかりだ。それに、この男には一つ借りがある。
 俺は「そうですね。そうましょう」と応じた。

 2

 網野はタクシーの中で近況を語った。
「今、長野県に住んでいるんですよ」
 網野は長野県の出身で、退官後、田舎に帰り、今は姉夫婦が経営する温泉旅館を手伝っているという。
「東京にいてもやることがないですからね。でも、ダメでした。元警察官に客商売はできません。すぐ、おい、こらとやってしまうんです。だから、お客さんの前に出ないよう、裏方をやっています。
 でもね、絵は評判がいいんですよ。旅館のロビーや廊下に掛けてあるんですけど、お客さんにも褒められる。もっとも、他の旅館から注文がくることはないですけどね」
 今、絵の先生が銀座で個展を開いている。東京にはそのために来た。時間があったので渋谷に寄った。網野はそう語った。
「今日は東京に泊まって長野には明日、帰ります。伊吹さんも今夜はゆっくりできますよね。私ね、伊吹さんには、ずっと聞きたいことがあったんですよ」
 俺は気が重くなった。網野はあの日のことを聞きたいのだろう。あの日、俺は網野を利用した。網野の公安刑事としての力を利用した。
 タクシーは青山通りから外堀通りに入り、赤坂見附駅近くの山王下交差点を赤坂駅の方に曲がり、少し行ったところで停まった。
「静かに話せる店があるんです。案内します」
 飲食店が軒を連ねる通りから小路に入った。小路の奥にある雑居ビルの前に「信濃」という看板が立っていた。店はそのビルの地下にあった。
「幼馴染みがやっている店でしてね。もっとも、そいつはもう引退して、今は若い人がやっていますけど。昔は私がよく来るんで、警察官立寄所と言われていましたよ。山菜料理がおすすめです。お口に合うかどうかはわかりませんが」
 網野はこの店では顔のようだった。俺たちは奥の小部屋に通された。なるほど、ここなら静かに話ができる。
 網野のすすめる山菜料理をつまみながら、俺は近況を話した。
「今も出版関係の仕事をしています。ただ、あれから会社は辞めて、それからはずっとフリーでやっています。あの頃は社会思想関係、ようするに、右翼や左翼の本を担当していましたけど、今は実用書が中心です。資格試験の参考書とか。お医者さんの本もよくやります。売れ筋は認知症予防とアンチエイジングですね」
「ほー、そうですか」
「家族も元気にやってます」
「それはよかった」
「ただ、50歳を過ぎてから視力が落ちましてね。小さな字が読めない。これじゃあ、編集の仕事はできないので、どうしようかと思っていますよ」
「それは大変だ」
 網野は相槌こそ打っていたが、そんなことが聞きたいわけではないという顔をしていた。それはそうだろう。元公安が元極左に聞きたいことは、こんなことではない。俺は観念して本題に入った。
「あの日、何があったのか。網野さんの聞きたいことって、それですよね」
「話してくれますか」
 網野の目がキラリと光った。好々爺の顔が公安の顔に戻った。
「網野さんにはお世話になりましたから。でも、どこから話せばいいのか」
 網野はテーブルの上の一点を見つめながら、額に手の甲をコンコンと当てた。何度も、何度も。何かを一心に考えているようだった。
「あのー」
 コンコンが止んだ。何かいい考えが浮かんだようだ。
「公安の無能さをお見せするようで恥ずかしいのですが、そもそもなぜ、極左セクトの幹部だった伊吹さんが右翼団体の顧問になったのか、そこからわからないんです」
 網野のいう右翼団体とは青狼会のことだ。俺が青狼会に関わっていたのは事実だ。しかし、顧問だったことはない。
「あの頃、伊吹さんはまだ組織に籍があったはずです。それはわかっています。では、右翼になったのは偽装転向だったのか。それとも、組織の方針で青狼会に加入したのか。つまり、左右合同、国共合作だったのか」
 驚いた。組織に籍があったのは事実だ。が、他の部分に事実はない。公安はこんなファンタジックな夢を見ていたのか。
「網野さん、いろいろ誤解があるようなので、話をする前に確認をしておきたいんですが、あの日、何があったのか、ある程度はわかっているんですよね」
「それはもちろん。あの頃の私は現役の公安刑事でしたからね。当然、いろいろ調べています。だから、だいたいのことは把握しています」
「どう把握しているんですか?」
「青狼会で権力闘争があって、伊吹さんが裁定した。こう把握しています」
 全然違う。これもファンタジーだ。
 公安は何もわかっていなかった。が、無能だとは思わない。それだけこっちのガードが固かったのだ。
 しかし、もういいだろう。すべては終わったことだ。包み隠さず真実を話そう。

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