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マルコ福音書1:14∼20「シェガレ神父の説教」

B年間3主日 マルコ1,14−20 
教会共同体の網  2024

 洗礼者ヨハネから離れたイエスは故郷に戻り、ガリラヤ湖に面しているカペナウムという町に活動の拠点を置き、時が満ちて、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさいと宣言し始めます。遠藤周作は本の中にイエスが過ごしたガリラヤの時期をガリラヤの春と呼んでいます。イエスにまだ敵がいないし、評判がどんどん高まります。
 ある日イエスは、美しいガリラヤ湖沿いの道を散歩していたら、漁をしていた二人の漁師、アンデレとシモンが「湖で網を打っているのをご覧になった」と書いてあります。イエスの頭の中で打ってある網の光景は「近づいた神の国」のイメージと重なったようです。イエスは網の喩えを好んでいました。別な譬え話の中にイエスは「神の国は湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める網に喩えられる」と言っています(マタイ13、47)。また他の箇所で船に乗るイエスは弟子達に、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と命じます。イエスは網と船のことをよく語っています。海に投げ広げられる網は目に見えない神の支配の象徴であるのに対して、船はいつもイエスが私たちと共におられる教会のシンボルです。網という言葉は私たちが馴染んでいるデジタルのネットとは意味が同じです。このネットは素晴らしい道具であり、私たちの生活に欠かせなくなってきたが、同時に中傷誹謗、詐欺、虐待、フェークニュースなどの危険の世界です。しかし神の国のネットは分断を引き起すような世俗のネットと違って、一致と連帯、愛と希望、平和をもたらすものです。 
 網の話に続いてイエスは二人の弟子に「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と命じます。 それを聞いた二人はすぐ生活の道具であった網を捨てて、人間を救う神の網作りに協力し、イエスに従います。次にイエスは、網の手入れをしていたヤコブとヨハネにも声を掛けて、仕事用の船と網、また父や雇い人を放って置き、自分についきなさいと言い、新しい家族である教会の網を作るように招きます。イエスに従うにはやはり何かを捨てないといけないということです。
 その後イエスはペトロを頭として12人の弟子を呼び集めて、彼らが教会を通して神の網を降ろし、福音の運動を発足するようになります。私たちはこの12人の使徒の使命を受け継いで、社会の中で、人類の中で、救いの網を投げ降ろすように招かれています。時々教会のおろす網が破れたり、硬直したりしまうと不用になってしまいます。その時に私たちに福音の教えの原点に立ち戻り、網の破れを直すのが必要です。第二バチカン公会議は堅くなってしまい、閉ざされた教会の制度を刷新しようとして、誰にでも開かれた教会の建設に協力するよう私たちを呼びかけています。私たちは教会の管理と維持だけではなく、海の沖に出て行き、共同体の網を降ろすように呼びかけられています。時々網を下ろしても何も取れない時があります。それでもイエスは再び網を降ろすように私たちに呼びかけています。信仰をもって網を降ろし続けたら大漁の経験に恵まれることを信じています。これは復活されたイエスが弟子たちに約束されたことです。

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