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ヨハネ2:12∼25「シェガレ神父の説教」

B四旬節3主日
ヨハネ2、12−25   神殿の清め 
渋川教会 2024

 イエスは激しい怒りにかられて、「私の父の家を商売の家としてはいけない」と言って神殿の商売人や両替人を鞭で追い出しています。イエスの優しさに慣れている私たちは, この怒りに接すると驚くかもしれないが、時々優しさだけではなく、不正に対するイエスの怒りに触れることは大切だと思います。ところがイエスはなぜこれほど怒っていたのでしょうか。
 神殿の入り口に並んでいた屋台のドタバタ騒ぎ、牛、羊と鳩の鳴き声、物売りや両替人の叫び声などがうるさくて祈れないというのは、イエスの怒りの原因の一つだったかも知れません。巡礼地の有名な教会やお寺の参道を歩き、両側にお土産屋と屋台の混雑が目立つと、落ち着けなくて、憤りを感じます。祈るはずの教会もお喋りの場となれば困ります。
 しかし、神殿の話に戻るが、騒ぎと騒音というより、イエスの怒りの理由は、商人や両替人のあくどい商売の仕方だったでしょう。商人は過ぎ越しのお祭りに来ていた貧しい人を騙して、高い値段で動物などの奉納品を売ろうとしていて、両替人もできるだけ高い手数料を取ろうとしていました。それを見て神の義に生きようとしていたイエスの怒りは不思議ではありません。神の家は祈り、思いやり、歓迎の場であるはずなのに、抑圧、差別、搾取の場となっていました。それを知ったイエスは旧約の預言者と同様に怒りを押さえられなかったでしょう。神殿だけでなく教会も免罪符販売と秘跡の商売をしていたころ、イエスは同じような怒りを感じていたに違いがありません。現在もそうだが、数年前教皇フランシスコは、バチカン銀行の資金洗浄事件が暴かれた時に、「キリストの弟子であるならば、金儲けのため祈りを商売にするのは決して許せない」と一部の枢機卿を厳しく咎めたことを思い出します。
 商人や両替人を外へ追い出した後、イエスの行動に躓いたユダヤ人は、こんなことをするにはどんなしるしを見せるかと尋ねるがイエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直す」と答えます。新しい神殿は建物ではなく新しい神の民であると述べ、そこにこそ神が宿っておられると言います。
 では教会の建物はいらないということでしょうか。そうではありません。建物がなければ集まれる共同体もないからです。教会の建物は私たちをはじめ、誰でも歓迎する聖なる場です。だから教会の建物の維持が大切です。問題は私たちが教会の建物を、誰のためにどう使うかということです。建物は信者だけの所有になってしまえば、問題です。誰にでも開かれるべき場所です。初めて入って来た人が歓迎されなければ、神の家とは言えなくなります。数年前カトリック新聞にも出たが、東京のある信心団体は巡礼のつもりで、四国の88カ所の遍路と同じような感覚で、東京都内の80数カ所の教会を訪問する企画を実践したが、多くの教会は錠がかかっていて入れなくて、がっかりしました。戸がいつもしまって入れない教会はもうそこに神様がおられません。もちろん安全の問題があって、仕方がないが、口実になってはいけません。神様がおられる教会の建物は誰でも入り、開かれた場所であるはずです。教会の建物は人を分け隔てしない神の無償の愛のしるしです。誰でも来たら暖かく受け入れられ、そこに神様がおられる実感を持てる場となれば嬉しいです。
 渋川の教会の建物は毎日平日で開かられていて、みなさんの歓迎と維持のおかげで誰も安心して素晴らしいです。お花と掃除など協力なさっている方々に心からお感謝したいです。これからも必要な管理と維持を続けながら、思いやり、配慮、もてなしの心を忘れないようにしたいと思います。

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