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四旬節第4主日ミサ「シェガレ神父の説教」

四旬節4主日 
ヨハネ9,1〜41生まれつきの盲人  

 生まれつき目が見えない人の癒し物語を聞きました。長い話で、多くの人物が相次いでに登場するのでついていけないかもしれません。最初は弟子たちがイエスに尋ねます「この人は生まれつき目が見えないのは両親が罪を侵したからですか」と尋ねます。
当時、日本もそうだったが、生まれつき障害の原因は先祖が犯した罪のためだと信じられていました。この信念にこころが支配されている弟子たちは、質問に答えは決まっているので、軽い気持ちで質問して、本音を言えば盲人に関心がなく、共感がないです。
 弟子たちの理屈と違い、盲人に対する深い憐れみを示すイエスは黙って、当時の医療師がしていたように、唾で土をこねて目に塗って、池の水で目を洗うように命じます。指示に従った彼は目を洗った途端に癒され、感謝して戻るが、もうイエスがいないです。今度近所の人々が登場します。彼らは道端に座り込んで物乞いをしていた盲人を毎日見ていたが一体彼はどうしたのかと、癒しの原因についてあれこれと論じるが、目が回復された盲人を励まさず、共に喜んでいません。
 次に出て来るのはファリサイ派の人々です。彼らも盲人の癒しを喜ばず、癒したイエスが安息日のルールを破った一点だけにこだわり、目が見えた人に関心がなく、不平ばかり言います。
 次は今日福音の原文から省かれたが、盲人の両親が登場します。彼らはもうずっと前から目が見えない、物乞いをせざるをえない息子のことを家の恥だと思い、彼との関係を断ち切っていました。この両親が事件に巻き込まれたくないし、質問があれば大人である本人に聞いて下さいと、逃げてしまいます。
 結局今日の物語は次々に出ている人々、弟子も、近所の人も、ファリサイ派の人も、両親も、全員が、目が回復した盲人を歓迎しないのです。彼を罪人として見続けて、見えるようになった彼のことに興味がないのです。
 せっかく目が見えて治り、初めて目が開けられた盲人は周りの人の冷たい視線にしか合えなくて、依然として皆から捨てられたままです。皆の質問に答えても疑われている彼がやがて居直りして、癒やされた自分の体験を挙げて、周りの人に反論します。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目が見えなかったわたしが、今は見えるようになった。あの方は自分のことをおっしゃる通り、神から派遣された、世を照らす光りです。」そう話したら彼が追い出されて、外で再び会ったイエスのくちから、私はこの世を照らす光であるということを聞かされ、信仰告白します。それと対照的に自分たちが見えると思い込んで、ファリサイ派の人々は心の盲目は変わっていません。イエスは度々非難している「目があっても見えない、耳があっても聞こえない」人々はまさに彼らのことです。
 今日の福音のメッセージは「心で見なければものごとはよく見えない。大切なことは目に見えないんだよ」 というサンテグジュペリの星の王子様に話した狐の言葉に通じます。私たちは形、服装、学歴などだけを基準にして他人を評価する時に、人の心、神のわざ、真の光は目に見えません。
 第二の朗読に「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光りとなっています」という聖パウロの言葉を聞きました。闇に包まれている私たちの心は福音の光に照らされ、見えないものが見えるような信仰の目が私たちに与えられるように祈ります。そして私たちと教会共同体は、第二バチカン公会議が訴えたように、福音の光の下に、人々の悲しみや喜びを感じ取り、共にあゆみ、現実の中に隠れている神のわざのしるしが見える心が与えられますように祈りたいと思います。

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