見出し画像

ヨハネ15:1∼8「シェガレ神父の説教」

B 復活節5主日
ヨハネ15,1−8「葡萄の木」2024  渋川

 さっきつながりの象徴である葡萄の木の喩え話を聞きました。葡萄の木は古くからあり、聖書には豊な実を結ぶイチジクとオリーヴの木と並んで当時の人々に親しまれた木です。日本も葡萄の栽培が古く、平安時代から始まったそうだが、明治時代以降に剪定の方法と技術が海外から導入されたおかげで、葡萄の生産が盛んになり、秋になると大勢の人が葡萄狩を楽しんでいます。整然とした日本のぶどうの木に比べて、イエスの時代の葡萄の木の外見は見にくかったようです。木は地面を這うような形を取り、枝があらゆる方向に勝手に伸び、蔓が複雑に絡み合い、葉っぱが茂るため枝も幹はほとんど見えず、格好が悪かったです。しかし葡萄の木の樹液の循環がよくて、豊かな実を結び、非常に頑丈で、寿命は100歳以上超える葡萄の木がありました。しかも幹と枝がしっかり繋がっているから、神に繋がる民の象徴ともされていました。
 旧約聖書には葡萄の木と杉の木がよく比較されています。杉の木はピラミド式のようにまっすぐそびえ、枝が整っていて格好が良いが、嵐に弱い木であり、倒れやすいです。それに比べて幹と枝が密接につながっている葡萄の木は、どんな激しい嵐にも耐えられる木です。根元と幹、幹と枝、枝と蔓の全体がしっかりつながっているからです。
 新約聖書には葡萄の木の幹はキリストとなり、枝はわたしたちです。キリストに繋がっている限り私たちは神にとどまり、様々な嵐から守られ、豊かな実を結ぶことができます。また親密に繋がっている枝は私たちであり、父なる神のによって、多くの実を結びます。しかし見かけ上に幹につながっているかのように見えるが、実際につながっていない枝があります。口だけで威張っている偽善者のファリザイ派の人々はそのタイプの枝のように当たります。彼らは敬虔な信者のように見せかけるが、神から心が離れて、枯れて、実を結ばない枝であるから火に投げられてしまいます。  
 今日の箇所は幹と枝がつながって、実を結ぶ葡萄の木は教会共同体の象徴でもあります。歴史を振り返ってみると教会は度々、杉の木のようになろうとして、立派な位階制度を作り、人々を支配する誘惑に陥る時期がありましたが、こうなってしまえば教会は、互いに仕え合いなさいというイエスの掟から離れ、枯れた枝のように、不要な存在になってしまいます。
 教会は福音の実を結ぶために先ほど言ったようにイエスとの繋がりが必要です。つながりの言葉は10ほど出ています。「木につながっていなければ、実を結ぶことはできない」とイエスがなんども警告しています。つながって教会が結ぶ実は愛、信頼、平和、忍耐、思いやり、奉仕と柔和です。もちろん教会には管理も組織もルールもある程度必要だが、兄弟愛や奉仕の心がなければ普通の集団と変わらず、効率を上げても福音的な意味の実を結ぶことはできないでしょう。第二バチカン公会議は昔の位階制度が廃止したわけではないが、交わりと奉仕の視点に立って、教会の制度や組織の見直しを試みました。こうした公会議の刷新を受けて、その精神に沿って実行すれば、必ず私たちの教会は、分裂の多い無縁社会の中で、平和と和解、希望と喜び、真の連帯のよい実を結び、救いの印となることができると信じています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?