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マタイ福音書13:24〜30「シェガレ神父の説教」

A 年間16主日 マタイ13、24−30 
麦と毒麦 渋川教会 2023 

 今日も先週と同じで福音書の箇所は種蒔きの喩え話であり、第一部は喩えそのもの)(13,24−30)と第二部(36-43)は説明です。間にからし種とパン種、神の国の成長に関する短い喩え話があります。
 譬え話は「主人」と呼ばれている神は良い麦の種を畑に蒔くが、夜は敵である悪魔は巧みに入り込み、同じ畑に毒麦を蒔きます。後のイエスの説明によると畑は人類社会、良い麦は善人、毒麦は悪人です。芽を出す麦と毒麦は見かけ上よく似て、実が成るまでに区別できません。
譬え話に弟子たちと呼ばれているが「毒麦を抜き集めておきましょうか」、つまり「善人だけを残して悪人を引き抜き、社会環境の浄化をすればいかがですか」と主人の本音を探ります。しかし主人は「毒麦を引き抜くと、良い麦も一緒に抜くかもしれないので、待ってください」と答え、僕らの焦りを抑えます。「実が成らず毒麦と良い麦の区別がつかないうちはーすなわち、誰が善人で誰が悪人か分からないうちはー「両方とも育つままにしておきなさい」と指示します。刈り入れの時が来れば、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、良い麦の方は集めて倉に入れなさい」と命じます。
過去の歴史において、度々悪人の消滅を目指すグループが現われて、社会的に 望ましくないとみなされた人を抹消して「社会浄化」を促す人がいました。最近でも悪人と思われる人の掃討運、ナチスのユダヤ人絶滅や、旧ユゴスラヴィアの民族浄化など、私たちの記憶に生々しく残ります。今なお“反ナチス”と“堕落した西洋文明の是正”を大義名分として隣国を破壊し侵略しているロシアもそうです。
残念ながら昔の教会内にも「異端者の排斥運動」や「宗教裁判」「魔女狩り」などが行われ、“悪いと思われた一部の人”の根絶を図ってきた過去があります。今なお「服装」とか「生き方」とか「考え方が合わない人」の排除が目立ちつつあるようです。去年の秋、ある国では「教会の倫理」を守らないと思われる人が「教会のゴミ箱として扱われ、外に出すべきだ」という“ゴミ箱運動”が行われているが、考えてみればこのような教会の警察的な発想は怖いです。
福音を読めば、神が社会また教会の浄化を望んでいる箇所はどこもありません。終わりの日まで神は人を裁かず、人それぞれの成長を求め、善人と悪人の両方とも育つままにしておいてほしい、と願っておられます。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる方」(マタイ5-45)だからだ。神は善人と悪人を選別せず、期待をもって皆を見守りながら、皆の救いを望み、幸せであってほしいと願われます。イエス自身、自分たちが善人だと思う人の側でなく、罪人と指さされる人の側に立っておられ、誰にでも回心のチャンスを与えてくださいます。これこそ愛と希望に満ちた福音の良き知らせではないでしょうか。
神は皆が安心して。喜びが感じられ育つように願っておられます。希望の福音を伝えていくことは私たちの課題ではないでしょうか。確かに譬え話の終わりに厳しい言葉が気になります。最後の審判の時に、善人と悪人は選別され、良い人が救われ、悪人は滅ぼされるといわれているから。しかしその選別の基準は人間の基準ではなく、神の慈しみによって定められます。これから神の憐れみを信じて、互いに育ち合っておきながら、救われるように祈りたいと思います。

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