わかる≠できる
四半世紀に遡る
高校の先生がおもむろに黒板に書いた
「わかる≠できる」
あの当時、先生が何をつたえようとしたのか
先生の意図は先生にしかわからないけれど
今になってその言葉が染みる
四半世紀たってもあのシチュエーションが
リフレインするあたり
きっとわたしの魂が何らかの反応をしたのだろう
妻
母
娘
仕事
肩書きのないただの私
人生にタラレバはないのは百も承知
上をみたらキリがないのも承知
で、素直に思う
今のわたしで子を妊娠、出産、育児したかった
今ならもっといろいろできたのに、と
反面、それは違うよ、と言っている私もいる
今まで出会ってくれたすべての人がいたから
今がある
体力気力環境は人それぞれ
皆違う
誰かと比べるではなくて
今のわたしと一年前のわたし
卵が先か鶏が先かの話になる
ただ、わたしは揺るがない自信がある
どんな時も誰かを思う気持ち
根本にある愛は普遍
オキシトシン
仮に出ていても
その時の環境、自分の状態で作用は真逆
やすらぎか逃走、闘争か
もっとなら
麻痺してオキシトシンが出ないことも
生きるためにはオキシトシンどちらの作用も大切
バランス
膣ケアで体感し教わったこと
わかる=できるになってきた最近
腹落ちするまでつみあげるの
膣ケアしたい、何がわたしをそうさせるか
自分が枯渇することで周りにあたりたくない
これに尽きる
わたしはそんなに強くない
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