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「お疲れおれ」

4年 経営学部マネジメント総合学科
稲葉柊斗

あーーーーーやりきった


お疲れ様です。みなさん巷(坂戸)で噂のなんちゃってエフリーガーこと稲葉です。

その話は置いといて
適当に思い出を話して行きます。

話をまとめる力もなくだいぶ長くなりそうなので適当に見てってください。

多分大事なことは最後ら辺に書いてると思います。

まず両親へたいち、ともちゃん俺の名前を柊斗(しゅうと)にしてくれてありがとう。本当にここまでサッカーをやらざるを得ない状況こそが今の俺を創り出しています。本当に感謝しかありません。

(そして大好きなばーば!
あかちゃんときからいつも自分のことお世話してくれるので家出れません。笑
長生きしてください。本当にありがとう。

やっちゃんも小さい頃いつもオープンカーで2人でいろんなところ連れてってくれてありがとう。もっと活躍します。)


小学校の時、自分はサッカーを辞めてシュートボールを投げるピッチャーになろうと思いましたが「野球道具は自分で買えよ」と言われて諦めたこともありましたね、物心ついた時にはリフティングしてた自分がサッカーを辞めることを親はあり得ないし悲しむと思っていました。

さらに追い討ちは、ガキ大将である弟がサッカーを辞めてゲーマー兼バスケ選手になると言い出し、もっと辞めづらい環境になりました。ますます自分にはプレッシャーがのしかかっていましたが、中学3年時で身長155センチ3月生まれだからしゃーないと自分に言い聞かしほぼ公式戦にも出ていないしサッカー続けてきた理由も楽しいのはチームメイトと楽しく行き帰りを共にしたり、オフの日に遊ぶことだけが生き甲斐のサッカースタイルを歩んでいました。

本当にその友達がいなければ今の俺はいません。本当に自分は幼、小、中、高、大 全てで親友がいて、今も応援に来てくれる友達には本当に感謝しかありません。
その友達には結構言ってますが、全員で同じタイミングで子供産んで同じ小学校通わせてサッカーチーム作ろうって飲んでるとき話したりしてますね。実現できるでしょうか、、、


そして大学生となり早4年

4年間正直自分でもよく頑張ったと胸を張っていえます。片道2時間

朝から授業の時はいつも電車が遅延するし、乗り合わせも悪く9時30分からの授業を6時45分には、そこから授業があり、その後部活へ
終わって家に着くのは22時、23時ほど
朝練習がある日は、電車が始発でも間に合わないので坂戸民のいろんな家に毎週泊まりまくってました。ちなみに中西家は、うるさくしすぎて出禁 森高家は、夜ご飯のミートソーススパゲッティを床にひっくり返して出禁という過ちを犯してしまいながらも、なんだかんだ泊めてくれた坂戸民たちには、感謝しかありません。

そしてなんと言っても柳家では、夜ご飯を腹一杯食べてきたにもかかわらず優しすぎる柳ママは、ご飯大丈夫ですと言っているのに遠慮しないでよ〜と言い夜の23時過ぎにハンバーグ定食が出てきてお腹いっぱいでも美味しいです!!と言いながら食べてましたね。(柳ママは栄養士か何かやってるし本当に料理も美味しかったです)

そして原山家両親夜遅くまで仕事のため勝手にバレないように泊まりまくってました。ありがとうございます。今では海里(ユーリの兄貴)とは、よく電話したりしてユーリよりも仲良いです。原山家両親ともご飯に連れてってもらったり本当にお世話になりました。あさちゃん、あきらさんまたすぐ遊び行きます。ご飯行きましょう。


そして一年生から振り返ると
まず一年生一番印象的なことは、自分は5カテゴリー中3番目のカテゴリーでやらせてもらっていました。同じ一年生だとハラキン、るかん、自分の3人でずっと同じカテゴリーで練習させてもらっていました。あやともいたけどある日のゲーム中わけわからんところで謎のオーバーヘッドキックで骨折。途中で怪我人になりました笑

 そんなこともあった中、はじめての遠征があり嬉しいことに3番目のカテゴリーから自分だけ2番目のカテゴリーの遠征に呼ばれることになりました!めちゃくちゃ嬉しかったです。やってやろうと覚悟を決め前日練習に向かっていると一通の電話が

ゆーり 「もしもし、何してんの?練習こいよ」

おれ「始まったよ、そーゆーノリいらんから」

ゆーり「練習時間見ろよ」

おれ「・・・」

完全にやりましたね。 4年間で唯一でした。
起きていたのに練習時間を見間違える。

知らない先輩も多く遠征前日にこの一年何してるん?やばいやつ来たとざわつき
監督にも怒られ 遠征中も休む暇などなく試合が終わったら永遠に副審 片付け全部を1人でやり地獄の遠征を過ごしました。
帰ってきてからも罰として全カテゴリーの雑用を1週間やり、夏休み尋常じゃない暑さの中ずっと外にいたこともあり、稲葉史上最大級の日焼けを体験することになりました。そして雑用期間最終日 1人で氷を運んでいると

ミーーーンミンミンミンミン

ペタッ

蝉が自分の顔にくっつき
後ろにさりげなくいたこーたろーさんに
お前、木やん と突っ込まれとても恥ずかしい思いをしたのは今でもとてもいい思い出として刻まれています。

本文


一年生の頃はIリーグにもたくさんでて経験を積んでいざ2年生に上がるタイミングでコロナが流行してしまいました。

4ヶ月ほど休みを経て自分が復帰したタイミングでフットサル部門ができると聞き興味があった自分はチャレンジしてみることにしました。
初めての試合では、ルールが分からず4秒ルールを1人で4回も引っかったこともありました。

そんなこともありましたが、恩師柴沼先生の教えもあり、初めてでた全日本のトーナメントで5.6回予選から勝って埼玉のチャンピオンになることができ、さらに快進撃は続き埼玉県大学選手権予選も優勝をして、埼玉2連覇を達成でき、コロナで全国大会は無くなってしまいましたがタイトルを取ることができたのは嬉しいことでした。

 自信もついて三年上がったタイミングでトップチームに昇格することになり初めての公式戦にも出場することになりました。ここまでは良かったのですが、4月から県リーグが始まりましたが、県リーグでもメンバー外も続きあまりチームに貢献もできず何してるんだろうなどと考えることも多くなりました。

自分自身のキャラもあり平気そうな顔をしてチームの雰囲気が良くなる声かけをすることだけがトップチームでの生き甲斐でサッカー面では本当に何も貢献できない自分に腹が立ちその結果、数字で結果を出さないと自己中な考えも増え練習も空回りをしてうまく行かないことが増えて前期が終わるタイミングでセカンドチームへ降格することになりました。正直納得することしかできませんでした。チームに必要なかったしどうすれば貢献できたのだろうもう一度見つめ直すきっかけになりました。

自分たちの一個上は本当に頼り甲斐があり安心感があり言葉に責任があり、さらに言ったことは達成する本当にかっこよかった自分もそんな人になりたいと思い、毎日練習に取り組んでいました。そんな先輩たちは、プレーオフを勝ち取り入れ替え戦を勝ち自分たちに11年ぶりの関東2部復帰というプレゼントを送ってくれました。

本当に嬉しかった。自分たちの代で関東リーグへ挑戦できる。楽しみでしかなかった。

いつも以上に気合の入る練習、ランダムでチーム分けされ新チームを決めるのですが、自分のチームは毎回コロナ感染者がいて5回も練習が何日がなくなってしまった中でのチーム分け体も調子よく流石にトップチーム入れるだろうと思っていた中電車に乗って帰り池袋駅に着いてドアが開いたタイミングラインの通知が来てトップチームに自分の名前はありませんでした。
今まで味わったことのない悔しさ本当に初めて電車で悔しすぎて泣きました。笑 

そっから自由が丘まで30分一回も顔を上げずバックに泣いてました笑
その日はユーリに電話して色々話しましたね。
本当にあの悔しさがなければ今の自分はいません。次の日は練習試合だったけど誰とも喋れませんでした。でも、1日経ち絶対這い上がってやるこれは自分に試練を与えてくれたんだと思い誰よりも努力してスタメンまで上り詰めると決めて練習にも覚悟を持って取り組んでいました。

その後Bチームでの遠征個人としてもこの遠征で結果を残して上の遠征にも呼ばれてやると思って死ぬ気で戦いました。多くの得点アシストを残し遠征終了後トップチームへの遠征へ追加で呼ばれることになりました。そこで結果を残さないと昇格できないと思いました。初日は会社の面接があり2日目から参加でした。その遠征では3日目の最後の試合で脳震盪になってしまい2試合しか出れませんでしたが、2得点2アシスト得点を決めた後ゆーりが大喜びをしてくれたのは今でも覚えています。あの天然芝の匂いと夕日が沈む景色とみんなが喜ぶ顔は本当に忘れられません。笑笑

そして吉川脳震盪の看病ありがとうな

その結果遠征終了後関東リーグのメンバーへ追加登録されることになりました。

実は2年生の頃、監督が交代し東海林監督との個人面談が全員ありその時に何か質問があるかと言われ、

「関東リーグはどんなところですか?」と質問したことがあり、

「自分たちとレベルは紙一重チームが一つになれるかどうかが勝利を分けるんだ」

と言われたことがとても頭にありました。自分にしかできないことはなんだろうと考えてから自分は2年生以降本当にいろんな選手と仲良くなりコミュニケーションを取ってサッカー中だけでなくオフの時もチームを繋ぐ役目ができるのではないかと思って常日頃行動し続けていました。

特に後輩との関わりは大事にしてきました。いざ上級生になった時、どれだけ下の学年が伸び伸びプレーできるか100%力を発揮することができるのかそのような環境づくりをするのも上級生の仕事であると思っていました。

例えば新しく入った下級生の選手をトップチームの4年生におちょくって絡ませたりよくしてました。ふざけてやってるって思ってたかもだけど俺の中ではそーゆーやりとりがあるだけで少しでも信頼関係が生まれてサッカーに生きるんじゃないかなって思ってての行動もでした。
普通にいじってたこともあるけど笑

これの成功例があらたでトップ上がってからみんなと絡ませて飲みとかもたくさん行って仲良くなって練習で4年生たくさんいても素でいる機会が増えて少しは力が抜けて練習できてたんじゃないかなって勝手に思ってる。あらたの実力がほとんどだけどね!今では城西の中盤を支える選手にまでなってくれて俺は本当に嬉しいぞ弟よ

去年の先輩とは違う支え方かもしれないけど俺にできることはこんなことだけで正直それがチームにとってプラスになったかは分からないけど自分は4年生になってようやくこうやって考えることができました。


 それは自分に対しても考えることができるようになりました。

なんで結果出してるのに試合出れないんだ
うざいあいつ見る目ないとかよくいう人はいるけれど本当にそうなのか?そういう発言する選手はそこまでの選手でしかないしもっと自分にベクトルを向けなければいけないんだと思う。

それでも不満がある時は自分に課せられたミッションだと思って自分はさらに気合が入る。

まあ大体は何かしら自分に原因があるわけだと思うし、監督コーチそれぞれ人間であり、好き嫌いがある。その中でどんな人が来ても試合に出れる選手っていうのもいるのも事実である。

そのような人間に自分はなりたい。応援される選手でありたい。憧れを持たれる選手になりたい。それが今の目標です。

チームとしては、関東3部降格ということになり、後輩たちへプレゼントもなく引退してしまうというとても恥ずかしい結果でしたが、下級生は本当に頼もしですし、少しは4年生のいいところも見せれたと思うので、本当に頑張って欲しいです。

特に一年生の頃から俺らの先頭に立ち自ら嫌われ役を務めて毎日俺よりも辛い思いをしながらこの4年間まとめ上げてくれた浅賀には感謝しかありません。浅賀がキャプテンで本当に良かった。ありがとう!そしてお疲れ

サッカー担当青森山田 4人
プライベート担当東京実業 5人
みたいになってたけど
この代では本当に大きな力を持っていたグループだと思います。これを機に兄弟校にしてあげてもいいぞ山田。

そしてこれからお世話になります。バルドラール浦安の皆さん!
Fリーグでも現在2位というチーム成績であり練習では本当に選手たちの実力を前に何にもできないような状態で情けなさをすごい感じでいる最中であります。未熟者で実力も正直足りないところしかありませんが、死に物狂いでこれから成長して行きます。いつか来てくれて良かったと思えるように恩返しをしたいとします。温かい目で見守りしてください笑これからよろしくお願いいたします!

そしてこれを引退ブログを見てくれたみなさんぜひワールドカップでABEMA TVをダウンロードしてくれた人も多いと思うのでぜひサッカーファンの方
フットサルも全試合生中継しているので、一度試合観て欲しいです!!

長くなりましたが、これで失礼させていただきます。

4年間お疲れ俺!!!

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