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「16年間のサッカー人生」

4年 経営学部マネジメント総合学科
森高玲

思ったことを書いたので文章がおかしいのは気にしないで下さい。
サッカー人生で最後の試合は悲しい終わり方だった。16年間サッカーをやってきて、小学校の頃はただの趣味程度でサッカーをやっていた。中学になってからはクラブチームに入って、関東大会などに出場することは出来たけど大して試合にも関わっていない。関東大会は初戦で負けた。でも、悔しい感情とかは何も無く、ただ終わったんだっていう感情と少し試合に出れてよかったと思っていた。中学最後の高円宮杯が終わって本当はこのままサッカーを続けるつもりはなかった。理由は、勉強が嫌いで高校受験もしたくなかったからだ。だからサッカーを続けるようにした。長崎総附や横浜FCなどにも受けに行った。長崎総附は受かったけど坊主だから行きたくなかった。横浜FCは何も出来なかった。結局親に勧められた矢板中央高校のセレクションにいき、特待生として呼ばれたから矢板に行こうと思った。
矢板に入ってからは、1年だけのルーキーリーグがあってそこでも最初はメンバーにも入れなかった。ルーキーリーグの後期から徐々に出れるようになったけど最後の試合でまたメンバーから外れた。ルーキーリーグが終わって、自分は仮病で練習を週1で休むようになった。もう試合も終わって、どうせトップにも入れないしめんどくさかった。こんな事をやってる間にカテゴリーが分けられ、1番下のカテゴリーになっていた。
そのまま高2になってずっと下のカテゴリーにいた。1年の頃に一緒に試合に出ていた仲間はトップにいたり、少し羨ましかったけど別にトップに上がりたいとかはなかった。高2の冬にはテスト期間中にテスト勉強をするために無断で練習を休んで部停になり、毎日雪かきをやっていた。その時は、練習しないで雪かきだけで終わるなら楽でいいやって考えてた。この頃までは、まともな生活をしていなく、授業でも先生に怒られていた。
高3になって、高校最後の1年になった。自分の中でも流石にこのまま引退は嫌だった。この事をきっかけに高2の時はたまに遊び程度で練習後に残って自主練をやっていたけど高3になってからはシュート練習だったり、1対1をずっとやっていた。紅白戦で結果を残すことができ、高3のインターハイ前にトップに上がることができた。インターハイはベンチには入ったけど試合には出れなかった。正直少し満足していて、試合に出れなくてもグリーンスタジアムでアップできるからいいと思っていた。選手権の予選が始まり、決勝で佐野日大とやって勝った。素直に嬉しかったし、全国大会でも優勝までいってほしいと思っていた。全国大会の前に最後の練習試合があった。その時は調子が良くて点も取れた。その後コーチからはお前をスタメンで使えるかもしれないから準備しとけと言われていた。その時は動揺していたけど、その言葉を聞いて嬉しかった。その結果、全国大会初戦でスタメンになれた。でも前半35分で交代した。矢板は前半交代が当たり前だから別に何とも思わなかった。2回戦目も前半で交代した。3回戦目の相手は青森山田で自分のサイドにバイロンがいたから守備ができない自分はスタメンから外された。自分に変わり、スタメンで出た選手が点を取り、複雑な気持ちではあったが嬉しかった。でも、山田のロングスローから2失点をされ、高校最後の試合は負けてしまいベスト8で終わった。高校サッカーはサボっていた時期の方が多いけど最後には選手権に出れてよかった。
城西大学に入ってから、1年は2カテゴリーに分けられて、こうたろうさんの元で毎日の練習で毎回怒られて怒鳴られての毎日だった。何回下手くそって言われたのか分からないほどに言われた。夏の遠征では、寝る場所がなくて稲葉と一緒に押し入れで寝ていた。意外と寝心地が良かった。この時は調子が良くて、点も決めれたしアシストもかなり出来た。でも、PKだけは下手くそだった。この時、一生PKは蹴りたくないと思った。1年の時は、2カテゴリーにいてIA、IB、ICのどこにも所属してなくてCLしか出れなかった。毎回ほぼ関わりない人と試合を出来たことは楽しかった。
2年になってからは、コロナの影響で部活もやれなかった。家では、ずっとゴロゴロしてどう森をやっていた。コロナが少し収まって部活が始まってIBに所属できたけど1試合も出れなかったような気がする。ずっとフットサルしかやってなくて、夏の2部練が1番きつかった。2年の頃のサッカーで何があったか思い出せない。フットサルの練習の前にりょうすけさんにNARUTOのネタバレをされたことが1番萎えていて印象に残ってる。※ネタバレは良くない。
3年になって、フットサルで柴さんの元でやって来てトップに上がれることができた。最初は村田がスタメンで出ていて、夏前からは自分と村田のどっちが出るか分からないような状態になった。その後はスタメンでずっと出れるようになれた。県リーグで優勝し、参入戦の初戦で点が取れた。試合が始まる前はずっとふわふわしていてまだ寝起きのような感覚だった。1試合通して何も出来なかったけど最後に1点が取れてよかった。参入戦のプレーオフでは、結果としては、2ー1で勝つことが出来て、4年生が結果を残してくれたし劇的なゴールだった。あの時は本当に感動した。個人としては、少し緊張していて、特に何も出来なかった。
4年になってからは、関東2部の大学と戦ってきて、技術やフィジカルでも全然勝てないような選手達とマッチアップしてきた。自分の得意だったドリブルもほとんど何も出来なかった。自分のミスから失点もたくさんあり、毎回萎えてた。2部での結果は10位で終わり、4年最後の試合はプレーオフの作新戦だった。相手のセットプレーで自分のマークが外れて失点をした。そのまま試合が終わった。サッカー人生で1番悔しくて情けなかった。次の日のCLをベンチから見ていて、相澤がゴールを決めた時は相澤がずっと試合に出れなくて辛かったのを見ていたから本当に嬉しかった。最後の試合でも逆転して負けるのがやっぱり城西らしくてよかった。
16年間サッカーをしてきて、高校で色々とやらかしたり、サボったりして怒られて部停になってきたけど、最後の試合に出ることもできた。大学では、フットサルで県を優勝できたり、埼玉選抜としても試合にでれた。サッカーでも、関東2部で試合することができ、結果としては降格になってしまったけど、後輩は関東2部に戻れるように頑張って欲しい。特に矢板最後の高田、サッカー辞めんなよパチンカス。
あと、親には今まで支えてくれてありがとう。
4年生のみんなとサッカーが出来て良かった。
最高に楽しい4年間だった。

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