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報恩謝徳

現代政策学部社会経済システム学科
1年 外山賢壽です。

こんにちは。水戸ホーリーホックユース出身の外山賢壽です。都道府県魅力度ランキング再び最下位になった茨城県ですが、それでも僕は茨城県を愛しています。

文章を書くのは苦手ですが、最後まで読んでもらえたら幸いです。

まず初めに、僕がサッカーを始めたきっかけについて話していきたいと思います。
私は、兄の影響でサッカーを始めました。兄とは11個も歳が離れていて幼い頃の自分からすると影響力もあり、憧れの存在でした。運動も勉強もできそして何より、かっこよかったんです。バレンタインの日にはチョコレートを30個もらって帰ってくるようなそんなイケメンな兄でした。
そして、私がサッカーを始めたのは小学2年生からです。キーパーという特殊なポジションを始めたのは小学校5年生からです。小学校低学年まではただボールを追いかけて走ってボールを蹴るということが楽しく、何の悩みもなくサッカーをする事ができていました。強いて言うなら、「暑い日は疲れるなあ」ということぐらいです。キーパーを専門的に始めてからも小学生年代の中では身長もあったということからこれといった悩みもなく楽しくやれていました。そして中学生に上がり、初めてサッカーに対して挫折をしました。ジュニアユース年代になるとゴールの大きさが変わり、当時身長でカバーしていた少年用ゴールとは違く、なかなかうまくいきませんでした。
上手くいかない日々が続いていましたが、日頃から頑張っているという姿勢を評価され中学1、2年生までは試合に出れていました。
しかし、中学3年生にあがるとレベルは急に上がり実力社会というのが現実的になってきます。中学2年生まで試合に出ていて、相方にポジションを奪われた当事者の私からするとものすごく悔しかったです。最後の大会までその相方との序列は変わることなくジュニアユースを卒団しました。そんな私ですが、当時の恩師であるキーパーコーチのおかげでそのままユースに昇格する事ができました。そのキーパーコーチとは小学生の頃から関わっていて自分のことをよく知っているということもあり、特別に練習試合に参加させてもらいそこでいいパフォーマンスをする事ができ、昇格をする事ができました。
今でも感謝しきれないほど感謝しています。
そして、ユースに上がっても最初の1年間は練習について行くだけで精一杯で、GKコーチに何度も怒られ、きつい練習で何度も酸欠になり、死に物狂いで食らいついてました。
多少余裕を持ってプレーできるようになったのは、高校2年生の春過ぎごろでした。コロナの自粛期間が明けてからもいいパフォーマンスを発揮する事ができ、2年の夏にはスタートで試合に出れるようになりました。そして3年生にあがり最高学年という立場になりました。しかし、怪我が多いシーズンとなってしまい、あまり試合に出場する事ができなくチームに貢献する事が出来ませんでした。最後の公式戦にも怪我で出場する事ができなく、今でも後悔の気持ちがありとても悔しいです。当時応援してくださっていたサポーターの皆さん、チームスタッフ一同、保護者の方々には申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
そして、この悔しい思いを背負って城西大学サッカー部に入部しました。入部してからまだ月日はあまり経っていませんが、すでにたくさんの壁にぶち当たっています。ですが、私は壁にぶち当たってからのリバウンドメンタリティに関しては自信があります。なのでどんな壁に直面しようと強いメンタリティを持って乗り越えていきます。
そして、タイトルにある通り感謝の気持ちを持って生活していきたいです。ユースの樹森監督をはじめとするスタッフ一同の皆さん、サポーターの方々、今まで出会ってきた友達、そして1番は家族に感謝したいです。実家から水戸まで遠いのに関わらず毎日欠かさず嫌な顔をせずに送迎をしてくれたり、感謝しきれないことばかりです。

そして何より、今は亡き父のために頑張りたいです。私が中学の頃に1番体を張って応援してくれていたのは父だったので、その想いに応えるためにも結果で恩返ししたいです。もちろん父だけではなく、叔母と一緒に頑張ってサポートしてくれている母のためにも頑張りたいです。
恩返しを実現するためには、口だけにならず今まで以上に努力をして結果を残さないといけません。私は今までの人生でいろいろな人と出会い、より多くの想いを背負っています。なので他の誰よりも人一倍死ぬ気で頑張っていきたいと思います。
長々となりましたが、最後まで読んでくださりありがとうございました!

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