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山本周五郎『さぶ』における構成について

こんばんは。まじめなタイトルですが、タイトルで期待してはいけません。
どうせ、ぼくの戯言ですから、お時間の許す人だけ、ゆるゆると読んでくださいね。
『樅ノ木は残った』を読んで以来、山本周五郎にハマっていまして……というほど読んでいないっちゃあ、読んでいないんですが、『さぶ』も読んでみました。
いまのところ、一番好きな作品かもしれない。
文庫本で一冊で終わるところがいい。
栄二とさぶの友情の話がいい。
どうして山本周五郎が好きなのかって考えたときに、思い出したのがケストナーです。
ケストナーの『飛ぶ教室』がとても好きです。
『エミールと探偵たち』も勿論好きですが、結局は『飛ぶ教室』が好き。
なぜかというと、主人公の子供たちを教える先生と、先生の親友の変わらぬ友情が美しいからです。
お涙ちょうだいと言われようが、純粋な人の気持ちが好きです。素直に感動します。涙が出ます。
『さぶ』もそんな話です。
江戸の表具屋(家具屋と思っていいんですかね?)で働く丁稚の栄二とさぶは仲良しです。
ちょっと愚図のさぶを、頭も良くて腕も良くて気風もいい栄二が守るようにして修行を続けます。
さぶは手先が不器用で、細かい仕事ができない。
だから栄二が独立したときに、さぶを障子張り専門の職人として雇う約束をします。
栄二は順調に親方の信頼を得て、育っていきますが、ある日、お得意先の大切なかんざしを盗んだと濡れ衣を着せられます。
誰が密告したのかは分かりません。
無実の罪ですが、栄二は自暴自棄になって弁解しないので、捕まって強制労働させられます。
物語は、この強制収容所に入った栄二が、いかに人の優しさに触れて再生するか、というテーマで進んでゆきます。
その間、さぶは何度も強制収容所に足を運びますが、栄二は「おれのことは忘れろ」と言って会おうとしません。
そうなんです。
『さぶ』というタイトルながら、物語の主人公は栄二であり、さぶはあまり登場しません。
まあ重要な脇役ではありますが、はっきりいって、テーマにもそんなに関係していないように思えます。
山本周五郎は、どうしてタイトルを『さぶ』としたのか。
全然わかりません。
山本周五郎に限りませんが、ぼくには長編小説の構成が理解できません。
ほとんどの長編小説には、胸を張って「構成」と呼べるようなものは見られないと思うからです。
映画はちがいます。
映画は基本、短編なので、起承転結のメリハリがはっきりしています。
そういう計算を良しとする芸術でもあるので、最初に作品のトーンを示して(あるいはテーマの反対の状態から入り)、じょじょに盛り上がっていって、ついにクライマックスに至って、登場人物たちの葛藤が頂点に達し、解決に至って大団円……みたいな構成がはっきりと分かります。
長編小説にも、たまにそういうものがありますが、ほとんどは物語の流れははっきりしません。
長すぎるので、そんなことやっていられない、というのが本当のところなんじゃないでしょうか。
映画とは別の意味の構成があるとは思いますが、読んでいてもそれを感じられない。
たとえば漫画なら、手塚治虫の『ブッダ』なんか、大テーマを示して、各々のキャラクターが織りなすエピソードが絡んでいって、ブッダの悟りに至る、みたいな構成が見えます。
長編小説は、「なんでこのエピソードがあるんだろ?」と疑問に思うシーンがたくさんあって、なんだか一本にまとまりません。
また、一本にまとまることを避けているような感じもします。
『さぶ』は、山本周五郎の作品の中では、構成がはっきりしているような気もします。
栄二は無実の罪で、逮捕され、人間不信に陥ったのだが、強制収容所の温かい人々に支えられて、人間を信じる気持ちを取戻し、最後にさぶの愚直な姿勢に心打たれて、自分を無実の罪に陥れた人を許す。
みごとな構成で、一本にまとまります。
でもなぜ『さぶ』というタイトルなのか。
まあ、さぶが栄二を愚直に信じたがゆえに、栄二は救われるので、さぶが栄二にとってのキリストだから、タイトルにしたのかなあ。
信仰の対象という意味で。
まあ、そういうことにしておきましょう。
傑作でしたー。

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