サガン鳥栖とは池田圭である -象徴の引退-

【1つの時代の終わり】

「サガン鳥栖とは池田圭である」

サガン鳥栖サポーターが掲げるゲーフラに書かれていた言葉だ。

その池田選手の現役引退が発表された。

https://www.sagan-tosu.net/news/p/4412/

池田選手は決して知名度が高いわけではない。
Jリーグサポーター仲間の飲み会で他クラブのサポーターに聞いてみても、「名前は知っているけど良く知らない」と多くの人から言われるが、他クラブまでよくチェックする人に聞くと「あの選手はいいよね」と返ってきた。

そういう選手だった。

私は関東在住の鳥栖サポーターのため現地での評判を語ることはできないが、表題、そして冒頭に挙げた言葉がゲーフラとして掲げられるような「サガン鳥栖を代表する選手」として愛されていたと思うし、私自身も非常に大好きな選手だった。

そんな選手が引退することに、言いようのない寂しさを感じている。

【良いとは言えなかったルーキーイヤー】

池田選手は2009年に流通経済大学から加入し、サガン鳥栖でプロデビューした。

エースのFW藤田祥史(ブラウブリッツ秋田→栃木シティフットボールクラブ)の大宮アルディージャ移籍に伴い、質、層ともに低下したFWのポジションでの活躍が期待されたが、ルーキーイヤーはJ2で15試合1得点。

この年は51試合あり、序盤は起用が多かったものの、中盤以降は出場機会がほぼなくなっていった。

同期入団のMF武岡優斗(川崎フロンターレ→ヴァンフォーレ甲府)、DF渡邉将基(2018シーズンまで横浜FC)は40試合に出場し、チームの主力として昇格に向けて戦っていたこと。
そしてその両選手が岸野監督に引き抜かれるような形で横浜FCに移籍していったことを考えると、この年の池田選手の心情は察するに有り余るものだっただろう。

私自身も、このシーズンはオフの岸野氏の乱を含めても非常に印象深いシーズンだったのだが、池田選手のことはある1つの出来事を除いてほぼ印象にない。
だが、その1つの出来事が私に「池田圭」という選手を強く認識させ、ずっと応援し続けるきっかけとなった。

【池田選手との出会い】

私が池田選手を現地で見たのは2009年10月21日のアウェイ湘南戦だ。
昇格にかすかな望みを賭けた重要な戦い。
この試合に池田選手は実に5か月ぶりにスタメンで出場する。

仕事を午前半休という形で切り上げ、現地に向かう私がスタメンを見た際、「なんで池田がスタメンなんだよ」と思ったことを覚えている。
言い方が悪いが、私の中では「ダメ」という烙印を押していた選手だった。

2009年のエースはFWハーフナー・マイク選手。
2トップを基本とするサガン鳥栖の布陣において、そのハーフナー選手と噛み合ったの相棒と呼べるFWはいなかったが、この重要な戦いで池田選手を使う意味は理解できなかった。
そして、その重要な一戦は幕を開けた。

結論から言うと、この試合の池田選手の動きを見て「なんで池田をもっと使わなかったんだよ!」と憤った。
中央で構えるハーフナー選手を補佐するように動き回り、時にはサイドに流れ、自身が起点となったり、中央にスペースを作ったり。
プレイスタイルや役割は異なるが、ロシアワールドカップにおけるフランス代表のジルー選手ような立ち位置と言えばイメージしやすいだろうか。
これまでハーフナー選手と組んだのを(スカパー!で)見た誰よりも動きがかみ合っているように、何よりチームとして機能しているように見えた。

前半は0-0。勝たなければならない試合ということもあってか、池田選手は前半のみとなり、外国人FWとの交代となった。
その後、チームは(私の目から見ると)前線に不協和音を奏でた後に、0-1で敗戦し、昇格の夢もほぼ消失。

観戦を終えて帰宅した際、妻に「試合どうだった?」と聞かれた。
私は「池田が良かった。あいつは絶対良い選手になる。」とだけ答えた。

【FW豊田選手の加入。そして】

多くのメンバーが入れ替わった2010年のFW豊田選手の加入、そしてユン・ジョンファン監督による重用により、池田選手は「豊田-池田コンビ」としてサガン鳥栖サポーターに認識され始める。

J1でのキャリアハイは2013シーズンの6得点、カップ戦合わせてもシーズン2桁を記録したことはないが、FWとしてスタメンに名を連ねることに、疑問に思う鳥栖サポーターは少なかっただろう。

「頭の良い選手」というよりも「相手の嫌がることをする選手」、「気が利く選手」という表現が適切で、それを売りにしつつも、FWとして自身も得点を狙いに行く。
そんな行く/行かない、出る/出ないのバランスを非常に上手く取っていた。

豊田選手の活躍も、J1昇格やその快進撃も、池田選手なくしてはできなかったことだと思っている。

だが、2015年以降、監督や戦い方が変わることで池田選手の出番や役割は変わり始める。
豊田選手の負傷離脱があった2015シーズンは難しい立場でのプレーを求められ、2016年のフィッカデンティ監督の就任後からは年々出場機会が限られていった。

2018シーズン最終節の鹿島戦では途中出場し、フェルナンド・トーレス選手と誰よりも良い距離感でプレーしたように見えていたが、シーズン終了後にマレーシアへの期限付き移籍が発表され、そして今年引退となった。

【池田選手がサガン鳥栖に残したもの】

池田選手がサガン鳥栖で戦った10年間。
その間にサガン鳥栖に残したものは何か。

記録としてはJ1昇格、そしてJ1での5位という成績などが挙げられ、記憶としては「豊田-池田コンビ」が挙げられるだろう。

記憶の部分にもう1つ書き足すとするならば、サポーターに「得点以外のFWの価値」を見せたことだと思う。

得点が少ないFWは叩かれる。

実際にインターネット上では叩かれている場面もあったが、その後には必ず「池田は必要だ」という反論がついて回っていた。
そんなサッカーの価値観、見方を彼は鳥栖という地に残してくれた。

池田選手を語る際、「縁の下の力持ち」という表現では足りない。
彼のプレーに対する表現も、彼に対する愛も、敬意も足りない。

「サガン鳥栖とは池田圭である」

同じ想いを持つサポーターが掲げていたこの言葉こそ、この上なく適切な表現だと感じる。

この10年間の彼の活躍に対して「ありがとう」では足りないが、「ありがとう」以上の言葉が見つからないのが、非常に口惜しい。

【池田選手へ】

池田選手、本当にありがとう。

今は子どもができ、スタジアムどころかテレビ観戦からも遠ざかってしまったが、一番熱量を持ってサガン鳥栖を応援ていた時期に、あなたのプレイする姿を見れて本当に良かったし、たくさんの力をもらいました。

池田選手がこれからサッカーにどう関わっていくのかいかないのかも今は分からないけど、あなたの今後が素晴らしいものになることをとにかく願っています。

この文章自体はマレーシア移籍が発表された際に書き、書く先を迷っている(当時はnoteやってなかった)うちにお蔵入りしていたものを再編したものですが、今も昔もあなたへの気持ちは何も変わっていません。

関東でのサポーター向けイベントでもらったサインは今でも大事にしていますし、これからも大事にします。

本当にお疲れ様でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?